墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

画像が出ない場合はPCで、クロームOSでお試しください。

須玖岡本遺跡・前編(奴国の丘歴史公園) 福岡県春日市岡本

奴国の丘歴史資料館を見た後は、西側の歴史公園(須玖岡本遺跡)へ。

 

最初に目に入ったのは「王墓の上石」

 

多数の副葬品を伴った甕棺墓の上にあった重さ4トン以上の石で、北西200mの位置から移設されています。

王墓の上石
明治32年(1899)、ここから約200m北西方にあった大きな石の下から、およそ2100年前に中国で作られた鏡30面前後をはじめ、銅剣・銅・ガラス壁・ガラス勾玉など多数の副葬品を伴った甕棺墓が発見されました。
「鏡・剣・玉」といった後世の「三種の神器」の原型ともいえる豪華な副葬品に加え、重さ4t以上の上石をのせるなど、ことのほか手厚く埋葬されたこの甕棺墓は、当時福岡平野一帯を治めていた奴国王の墓と考えられています。 
また、発見時の記録と近年の発掘調査などによって王墓はほかの墓(王族墓))から離れてつくられた、単独の墳丘墓であったこともわかりました。 
日本考古学の黎明期に発見されたこの王墓によって、須玖岡本遺跡の名は全国に知られるようになりました。昭和4年(1929)に京都帝国大学考古学教室調査団による、はじめての本格的な発掘調査が行われ、その後も須玖岡木遺跡を中心に重要な歴史的発見が相次ぎ、春日市一帯は「弥生銀座」と呼ばれるようになりました。 
資料館には奴国王の埋葬の様子を再現した実大模型を展示していますので、ぜひご覧ください。 
この大石は発見から幾度かの移転をへて、平成10年に現在地に移設しました。 
平成25年3月 春日市奴国の丘歴史資料館

 

ランドマークであったのでしょうね。

 

公園内に天文台?と思って近寄ると

 

中は発掘調査時の様子が保存展示されていました。

 

これが出てきたら驚きますね。

 

広角で。

 

現地の説明板。

甕棺墓と祭祀遺構
この覆屋では墓地の北端部に位置する甕棺墓群の一部と祭祀遺構が見学できます。甕棺墓はすべて弥生時代中期中頃(紀元前1世紀)のもので、成人棺が深く埋められた後、その周囲に6基の小児棺が続けてやや浅い位置に埋置された状態がわかります。このように成人用甕棺墓の傍らに複数の小児用甕棺墓が存在する例は、他の甕棺墓地でもよくみられます。
また、通路の下にも小児用甕棺を展示していますのでご覧ください。
祭祀遺構は墓地と関連した遺構で、甕棺墓群の周囲に文法しています。中から祭祀に使用された土器が出土しました。ここに公開している祭祀遺構から出土した土器は、甕棺と同じ時期のものです。

 

覆い屋はもうひとつ。

 

その内部。



甕棺・土壙・木棺墓と竪穴遺構
この覆屋では墓地の西端に位置する甕棺墓、土壙墓、木棺墓および竪穴遺構を発掘調査時の状態で公開しています。
ここに展示している成人用甕棺墓は、弥生時代中期後半のもので、大型の甕棺に木蓋をしていたと考えられます。木棺墓と土壙墓の時期は明らかではありませんが、鉄剣が出土した木棺墓については、甕棺墓や土壙墓より古いことがわかっています。
また、通路の下には小児用甕棺も展示しています。
竪穴遺構については住居跡とも考えられますが、墓地の一画につくられていることや、柱穴が竪穴の周囲に配されていることなど、ほかの住居跡とは異なった点が注目され、埋葬と関係した建物であった可能性もある遺構です。

 

 

その西、公園の端には平面四角形の竪穴住居遺構も。

復元した竪穴住居跡
発掘調査した3軒の弥生時代の住居跡の復元です。このような穴に柱を建て、上に屋根を葺き住居としました。中央のc住居跡がもっとも古く、両側の2軒は新しく建替えられたものです。

 

須玖岡本遺跡は、現在は住宅地になっている周辺にも広がっています。この後に、すぐ北側の熊野神社あたりを巡りました。

 

2024年2月下旬訪問