墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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須玖岡本遺跡・後編(岡本山・盤石・岡本地区) 福岡県春日市岡本

奴国の丘歴史公園からは北側の神社や住宅地の遺跡へ行ってみました。

 

まずは熊野神社へ。

 

こちらが拝殿。後ろに高まりが。

 

本殿は、高まりの上でした。

 

回り込んで後ろから本殿を。これは古墳ですね。

 

さらに回って、横から本殿を。


古墳時代後期の円墳とのこと。須玖岡本遺跡の時代からは600年ほども後のものになりますね。

https://www.city.kasuga.fukuoka.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/009/436/kawara8_2.pdf

 

古墳の説明板は無いですが、須玖岡本遺跡に関しては詳しく。

須玖・岡本遺跡
春日市の中央を南北に走り福岡平野に突出した春日丘陵上には、弥生時代の貴重な遺跡が密集し、須玖・岡本遺跡はこの丘陵の北端に位置しています。
明治32年、大石の下より甕棺が発見され、その内外から前漢鏡30数面、銅剣、銅矛、銅戈、ガラス璧、ガラス勾玉など多数の副葬品が出土しました。その後、発掘調査も数回行われ、遺跡の内容も徐々に明らかになりつつあります。
須玖・岡本遺跡は弥生時代中ごろの極めて有力な集団の墓地と考えられ、大石下の甕棺墓は奴国の王墓に推定されています。
また、周辺の遺跡から出土している多量の青銅器鋳型は、当地周辺が弥生時代に文化の中心地として栄えていたことを物語っています。

 

須玖岡本遺跡と熊野神社の銅矛鋳型
この銅矛の鋳型は、江戸時代に近くの畑で発見されたもので、熊野神社の宝物として大切にされてきました。
完全な形で残された鋳型は珍しく、また、広形銅矛の製作技法を知る手がかりとして大変貴重なもので、国の重要文化財に指定されています。
須玖岡本遺跡の周辺ではこのほかにも多くの青銅器の鋳型が発見されています。

ここ熊野神社の境内から見下ろす北側の一帯が須玖岡本遺跡です。弥生時代の遺跡として全国的にも屈指の内容を誇り、明治32年に奴国王墓が発見されてから、たびたび行われている発掘調査でも重要な発見が相次ぎ、この地は奴国王とその親族や側近らの墓地と考えられるようになりました。
春日市教育委員会 1997年3月

 

神社のある丘から北西方向。

 

周囲の住宅地では、ところどころで少しずつ、遺跡エリア化が進んでいるようでした。

須玖岡本遺跡 盤石地区 3・6次調査地
ここから北東方向に見下ろす岡本交差点付近には、飛鳥時代から奈良時代のころ水城西門から筑紫館(鴻臚館)を一直線に結ぶ官道が通っていたと推定されます。
この時代の瓦は官衙的な施設や寺院などの建物にしか使われることがなく、どこにでも出土するというものではありません。ここで発見された掘立柱建物は官道から見上げる高所に位置することなどから、官道に関連する施設であった可能性があります。

 

上記の説明板があった”空き地”からの眺め。

 

神社のある丘陵側を振り返って。

 

ここも”空き地”のひとつ。

 

ここは”王墓の上石”、つまり奴国王の王墓があった場所でした。


現地説明板。

国指定史跡 須玖岡本遺跡 ~王墓と王族墓~
ここには、いつの頃からか平らで大きな石がありました。 明治32年(1899)に家の建て替えのために邪魔になったこの大石を動かし、その下を掘ったところ、一つの甕棺墓が発見されました。 
甕棺墓からは、銅鏡30面前後をはじめ、銅剣、銅矛、銅戈が10本以上、ガラス勾玉やガラス璧など多数の副葬品が出土しており、「奴国王」の墓とされています。 
王墓は偶然発見されたため、具体的な内容は明らかにはなっていません。しかし、周囲の状況から判断すると人工的に盛土した塚(墳丘墓)に単独で埋葬され、甕棺の上には大石が設置されていたと推察されます。(現在、大石は奴国の丘歴史公園に移設、展示しています)
その後の研究により、王墓は、弥生時代中期末(紀元前後)に築かれたとされています。中国の歴史書である「後漢書」などによると西暦57年に光武帝から「倭奴国王」が金印を授かったとされており、ここに眠る「奴国王」は金印を授かった王より数世代前の人物と考えられます。 
一方、1990年の発掘調査では、この王墓の北西側に隣接して、同時期の墳丘墓が確認され、多数の甕棺墓が発見されました。調査された甕棺墓からは鉄剣・鉄矛などが出土しています。 
このためこの墳丘墓は「王族墓」とされています。 
2012年3月 春日市教育委員会

 

住宅街にも趣が感じられました。

2024年2月下旬訪問