墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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築山古墳 福岡県糸島市三雲

博物館の展示を足早に見た後は、600mほど北西の築山古墳へ。

 

墳丘南裾、公民館脇に停めさせていただきました。

 

公民館の東側には、周囲全体の三雲・井原遺跡の説明板。

三雲・井原遺跡 ~伊都国の王都~
糸島市三雲・井原地内
三雲・井原遺跡は、中国の歴史書「魏志」倭人伝に記された弥生時代の国のひとつである「伊都国」の王都とされる遺跡です。遺跡の面積は、瑞梅寺川と川原川に挟まれた約60haの三角地(右図の緑色およびオレンジ色の部分)で、その規模は弥生時代において国内最大級を誇ります。
遺跡の発見は、江戸時代の三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡の両王墓の発見にさかのぼります。本格的な発掘調査は1974年に開始され、今日までに100ヶ所を超えるトレンチ調査が行われました。調査の結果、遺跡中央部に広がる大集落と、その南~北部には集落を囲むような形で、甕棺墓や石棺墓などの墓域が展開し、集落と墓域の間は数条の大溝によって区分されるなど、しだいに王都の姿が浮かび上がってきました。
王都としての特徴は、広大な面積のほかに集落域から豊富に出土した外来系遺物にみられます。仲田地区や番上地区から出土した中国産の辰砂や中近東原産のファイアンス玉、朝鮮半島系の楽浪土器は中国、朝鮮半島との交流で繁栄した「伊都国」の証といえます。また、ヤリミゾ地区からは大量のガラス製装身具や銅鏡などが出土しており、王に次ぐ有力者の墓と考えられています。(後略)
糸島市教育委員会

 

マップを拡大。弥生時代の遺跡群の中に、古墳の印が。

 

築山古墳の説明板。墳長60mの帆立貝形前方後円墳(4世紀末)です。

築山古墳
中国の歴史書「魏志倭人伝」に記された「伊都国」の中心部に築かれた前方後円墳です。前方部は北西を向きますが、現在、前方部、後円部とも一部破壊されています。
昭和49年(1974)に行われた調査によって、墳丘の全長約60m、後円部の直径約49m・高さ約8m、前方部の長さ約15m・幅25m規模の、後円部に比べ前方部が短い帆立貝式の前方後円墳であることが確認されました。斜面には葺石が施され、周囲には盾形の周濠が廻っていたようで、周濠を含む全長は約105mになります。
主体部は未調査ですが、周濠からは壺形埴輪や円筒埴輪が出土していて、この古墳が築かれたのは、今から約1600年前の4世紀末ごろと考えられ、この古墳の北にある端山古墳に後続して築かれたと考えられています。また、古い記録には、付近に「茶臼塚」と呼ばれる古墳が存在したことが記されていますが、その位置は確認されていません。
この古墳に葬られた人は、弥生時代の「伊都国」の王に代わってこの地域を支配した、大和政権と深いつながりをもった豪族であったと考えられています。
糸島市教育委員会

 

実測図部分。

 

墳頂への石段。

 

グーグルマップには東観音堂と。

 

社殿前から振り返った南方向。

 

社殿の後ろ側。


北西側に伸びる前方部。

 

墳頂から西側の眺め。


その西側の道路へ回って振り返った築山古墳。

 

次に100mほど北の端山古墳へ向かいました。

この古墳への方向板がかっこよかった。