墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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老司古墳、卯内尺古墳跡 福岡県福岡市南区老司

小郡市の古墳をいくつか見た後は帰りの便のことを考えて、福岡市の古墳・遺跡を廻りました。

老司(ろうじ)古墳は、花立山穴観音古墳からは車で35分程でした。

 

グーグルマップに導かれて墳丘の北側へ。

 

説明板はありますが、金網で厳重に囲まれていました。

国指定史跡 老司古墳
那珂川中流域の西岸に位置する老司古墳は、5世紀初頭の前方後円墳で、福岡平野の豪族の墓と考えられます。発掘調査は九州大学を主体として第1~第3次調査(1965~69年)を、福岡市教育委員会が第4次調査(1987年)を実施しました。
古墳は標高約40mの丘陵上に前方部を南に向けて造られており、規模は、全長75m、前方部長33m、後円部径42mです。墳丘には葺石が施され、埴輪が立っていました。また、遺体を納めた石室は竪穴系横口式と呼ばれる初期の横穴式石室で、前方部に1基、後円部に3基あります。
石室からは三角縁神獣鏡を含む銅鏡10面、管玉や勾玉などの装身具、鉄製農具、鉄刀や鉄鏃などの鉄製武器のほか甲冑や馬具など多数の副葬品が出土しました。また、石室内に残っていた人骨から、複数の成人男女が葬られていたことが判っています。
これらの多彩な副葬品は大陸との交流を示すもので、東アジアにおける5世紀の日本を考える上で極めて重要です。2000年12月に国史跡に指定されました。

 

花崗岩製の100分の1模型も。

 

周辺の古墳の説明も。

老司古墳と周辺の古墳
老司古墳の位置する那珂川西岸の丘陵上には多くの古墳(群)が存在しており、周辺でも卯内尺(うないじゃく)古墳、老松神社古墳群、妙法寺古墳群、小丸古墳、浦の田古墳などの前方後円(方)墳が知られています。なかでも老司古墳の北側100mの地点に位置する卯内尺古墳は、老司古墳に先行する4世紀中頃の築造と考えられ、復元全長75m前後で竪穴式石室から仿製三角縁神獣鏡が出土したと伝えられており、老司古墳の被葬者に先立つ、地域の首長であると考えられます。これらの前方後円(方)墳は地域の首長系譜をたどる上で、我々に貴重な資料を提供してくれます。

 

北の道路から見上げると直線的な土盛りが見えますが、こちらは後円部のはず。

 

南西に少し降りて。やはり墳丘の様子は判らず。

 

お隣は福岡少年院の敷地。

 

老司古墳の北側、道路を隔てて中村病院。

 

この敷地内にかつて存在した、卯内尺(うないじゃく)古墳の説明板が道路沿いにありましたが激しくピンぼけしていました。

 

こんな時にはストリートビューなのですが、読むには難しく。

 

近隣の保育園のサイトに写真があったので、そこから一部を書き起こしました。

老司の歴史(地域子育て委員会) | しあわせの星保育園

卯内尺古墳
卯内尺古墳は4世紀中葉の前方後円墳です。那珂川中流域西岸の標高約40mの丘陵上に築かれていました。
約200m離れた老司古墳の一世代または二世代前の福岡平野を代表する豪族の墓と考えられます。
1991年7月~10月に医療法人中村病院の造成工事に先立ち、福岡市教育委員会により発掘調査が行われました。永年の造成工事で古墳基底部から破壊され、古墳のくびれ部付近をわずかに残す状況でした。
調査で明らかにできたわずかな墳丘や墳端線を元に、現在の周辺地形測量や過去の記録などを検討し、本来の墳丘の復元を試みることができました。
卯内尺古墳は前方部を東に向けた三段築成の前方後円墳です。その規模は全長73~78m、後円部径45~50m、くびれ部幅24~26m、前方部長約28m、前方部幅28~34mと推定されました。
墳丘斜面には入念な葺石、平坦部には敷石が施され、各段の平坦部に壺型埴輪が並べられていました。
遺体を納めた施設は古くに破壊され不明ですが、玄武岩板石で構築された竪穴式石槨に収められた木棺であったと推定されます。
遺体と共に納められた副葬品としては、石槨内から仿製三角縁神獣鏡1面(現在、九州国立博物館所蔵)、銅鏃1点、布類などの出土が伝えられています。
(後略)

 

説明板にはかつてあった墳丘の一部や調査時の写真が。

 

墳丘復元図もありましたが…

 

「前方部を東に向けた」ということは、写真左に前方部、右に後円部があったと思われますが、雰囲気をつかむことはできませんでした。

卯内尺古墳については九州国立博物館のサイトにも、詳しい解説があります。

九州国立博物館:博物館情報

 

2024年2月下旬訪問