墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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鵜の鼻古墳群・前編 島根県益田市遠田町

今回からは2023年11月末での、益田と下関を巡った記録です。

主目的は、益田市の島根県芸術文化センター グラントワで12月4日まで開催されていた「建築家・内藤廣展」を見ることでしたが、もちろん古墳巡りも。

 

最初の訪問地は、鵜の鼻古墳群。益田の街の北側、海に突き出た丘上に立地。

 

グーグルマップに導かれて小さな漁港に到着。

 

その背面が登り口。案内標識もあります。



途中の案内板。

島根県指定史跡
鵜ノ鼻古墳群
指定:昭和33年8月1日
弥生時代につづく4世紀から7世紀にかけて、全国各地に土を高く盛り上げた古墳が造られました。古墳はその地域を治めた豪族の墓で、その形態には前方後円墳・前方後方墳・円墳・方墳などがあり、権力の象徴として築かれました。
古墳時代の後期(6世紀~7世紀)に入ると、社会構造が大きく変化し、それまでは首長やそれを支えた有力な家筋の戸主だけに認められていた古墳の築造がさらに広い範囲の家筋や家族にまで及び、古墳に葬られる人が急激に増えて群集墳や横穴群が盛行しました。
群集墳は限られた地域内に数多くの古墳が次々と築かれた遺跡で、鵜ノ鼻古墳群はその典型的な例です。また日本海に突き出した丘陵上に形成されているなど立地の面からも注目すべき古墳群といえます。
昭和62年3月 島根県教育委員会 益田市教育委員会

 

上り道はその先すぐに稜線が見えていました。

 

整美された階段を行くと、掘り込まれたような溝。

 

溝の底に分かれ道の札。まずは左に上がりました。

 

左右に円墳を見やりながら進むと、屋根付きの説明板が。

 

(勝手な)想定外に大規模な群集墳でした。今は県指定で19基、かつては50基。

県指定史跡
鵜の鼻古墳群
指定:昭和33年8月1日
鵜の鼻古墳群は、日本海に突き出した標高40mあまりの丘陵上に分布している石見地方最大規模の古墳群で、古墳時代後期(6世紀~7世紀)に築かれた典型的な群集墳として県内でもよく知られています。かつては約50基の古墳があったといわれていますが、明治時代の国道建設や大正時代の山陰本線の鉄道敷設など、近代以降の各種開発によって多くの古墳が失われました。現在ではそのうちの比較的保存状態の良い19基が県指定となっています。その内訳は、全長30m前後の前方後円墳2基、他は直径10m前後の小円墳です。
古墳の内部には自然石を用いた横穴式石室が築かれていますが、大半は平面形が細長い、遺体や副葬品をおさめる部屋
(玄室)の片面に取り付くように設けられた通路
(羨道)がある、片袖式といわれるものです。この石室の形は、県内でも益田のみ確認されている特色のある形態です。
副葬品は、大正時代の鉄道敷設工事以来、各種の須恵器類、耳環、勾玉や管玉などの玉類、太刀、鉄鏃、滑石製紡錘車、単龍環式柄頭などが確認されています。
平成11年3月
益田市教育委員会

 

説明板の裏が古墳群分布図でした。あやうく見逃すところ。

 

そこから振り返った2基。


開口しているものも。

 

四つん這いで(匍匐しなくとも)入れました。

 

石の補填具合が互い違いの奥壁。


奥壁を背に。

 

こちらは陥没しています。

 

こちらは石材が顔を。

 

天井石の一部が開いてます。

 

カメラを差し込んで。

 

墳丘の間から港側(西方向)が。


弓なりに長い海岸線が見えました。古代はもっと深くまで湾が入り込んでいたと思われます。それを見渡す(またはそこに見せつける)にはもってこいの立地。

このあとに、前方後円墳があるエリアへ向かいました。