墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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若宮古墳 富山県小矢部市埴生字上野

前回の七野墳墓群(付近)からは車で20分弱、東へ県境を越えて若宮古墳を訪ねました。倶利伽羅峠の下をトンネルで抜けるので、現代では楽に行き来できます。

 

墳丘の南西側に駐車場完備。

 

端正な緑の墳丘です。手前が前方部、奥に後円部。

 

詳細な解説。

若宮古墳
若宮古墳は昭和34年(1959)、西井龍儀氏によって発見され、小谷部市の代表的な前方後円墳として広く知られるようになった。以後、西井氏を中心として測量調査や埴輪の採取など基礎的資料の集積がなされ、昭和60年(1985)に小谷部市指定文化財(史跡)に指定され、さらに平成5年(1993)には富山県指定文化財(史跡)となった。昭和60年、小谷部市古墳発掘事業団により墳丘周囲の範囲確認のための発掘調査が行われ、平成10年(1998)から平成11年にかけて古墳公園整備事業に伴う発掘調査が行われた。
調査の結果、古墳の規模は全長約50m、後円部直径約28m、くびれ部幅約11m、前方部幅約19mとされた。出土した須恵器や埴輪から6世紀初頭の築造であることが明らかとなり、後円部中央で埋葬施設1基を確認し、太刀などの副葬品が出土した。被葬者は当時この辺り一帯に勢力を持つ有力者であったと考えられる。
後世になるとこの地は古墳としてよりも、約1㎞北にある護国八幡宮に関連する施設として再利用されていたようで、古墳の上に鳥居を描いた絵図が護国八幡宮に残されている。また調査では後円部中央から鏡(12世紀後半~13世紀前半)が出土しており、古墳の麓にある若宮医王院に安置されている銅造阿弥陀如来坐像(富山県指定文化財)も若宮古墳から出土したものと伝えられている。
なお、古墳の周囲の調査では弥生時代後期の遺構が確認されており、弥生時代の集落の上に古墳が築かれたのであろう。墳丘の盛土の中からもかなりの弥生土器が出土している。
墳丘と埋葬施設
若宮古墳はそのほとんどが盛土によって築かれている。ある程度前方後円形に盛土をしたのち、後円部の外縁に沿って土を盛り上げ、すり鉢状になった中央に被葬者を埋葬し、さらに土を盛って古墳を完成させたようである。埋葬には大量の木炭(クリ材)が使用されているが、被葬者を納めた棺の形状などの状況についてはわかっていない。

出土遺物
古墳にともなう遺物には太刀3点、三輪玉6点、鉾3点、須恵器片、埴輪片がある。副葬品については埋葬施設の一部分を調査しただけなので確認できたものはごく一部である。このほか鏡が1点出土している。
・太刀・矛
太刀は棺内に納められ、被葬者の両脇に置かれていたものと思われる。東側に1点、西側に2点うち1点は把部分に三輪玉が飾られていたようである。鉾は出土位置から棺外から置かれたものと考えられる。
・須恵器
すべて前方部より出土している。墓上祭祀に伴って使用されたものと考えられ、壺、器台、甕などがある。6世紀初頭(TK47形式)に比定される。
・埴輪
古墳の周囲及び表土から出土している。墳頂部に置かれていたと考えられるが、前方部及び後円部ともに後世の削平により埴輪の置かれた痕跡は検出できなかった。器壁外面はタテ方向のハケ状工具で調整され、5世紀後半~6世紀(Ⅴ期)に比定される。
・鏡
中国の宋代に湖州(浙江省)で造られた湖州鏡である。中央の紐右に「湖州□□□煉青銅照子」と銘がある。何かに包まれて埋納されていたらしく鏡背にその痕跡が残っている。古墳とは関係なく12世紀後半から13世紀前半の埋納施設に伴うものである。

 

前方後円墳の全体像がわかる解説も。

前方後円墳
古墳には前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳などがある。このうち古墳時代を象徴するのは前方後円墳で、3世紀の半ば頃に出現したと考えられている。前方後円墳は弥生時代後期に各地で発達した墳丘墓の様々な要素を取り入れ成立したものである。最古の前方後円墳のひとつと考えられている奈良県の箸墓古墳(墳長約276m)は、同時期に築かれた他の墳形の古墳に比べて圧倒的に大きく、前方後円墳が優位に立っていることを示している。
前方後円墳は、4世紀の後半から5世紀の始めごろに大型化し、各地で大きな古墳が築造された。大阪府堺市にある日本で最大の大山古墳(伝仁徳陵古墳・墳長約486m)や誉田山古墳(伝応神陵古墳・墳長約425m)は、巨大化した5世紀の古墳の代表である。
北陸でも福井県手繰ヶ城古墳(墳長約128m)や六呂瀬山1号古墳(墳長約140m)や石川県秋常山1号古墳(墳長約140m)などの大型の前方後円墳が築造されている。また、5世紀は前方後円墳の分布が最も拡大した時期でもあった。最北端は岩手県の角塚古墳、最南端は鹿児島県の唐仁古墳群・塚崎古墳群とされる。しかし、各地で一律に前方後円墳が増加したわけではなく、逆に築造されなくなったり円墳しか築かれなかった地域もある。ここ砺波地域でもこの時期には円墳しか築かれていない。
6世紀になると畿内中枢では前方後円墳が急激に減少する一方で、関東地方のように前方後円墳が増加する地域もある。北陸でも福井県獅子塚古墳、石川県高木森古墳など、これまで前方後円墳造りの伝統がなかった地域でも新たに築かれた。若宮古墳もこれらと同じ頃の古墳である。この現象は、この時期の畿内の政治勢力による各地首長墓の再編がなされたことを示すものと見ることができる。やがて6世紀の後半には前方後円墳は築かれなくなり、前方後円墳の時代は終焉を迎える。その後、仏教が日本の支配思想として導入され、各地に寺院が建立されるようになるのである。

 

園路を辿って後円部へ。左が後円部、右が前方部。

 

パノラマ機能を使いたくなります。

 

後円部先端側から、右奥に後円部。

 

回り込んでいくと墳頂への階段が。

 

後円部墳頂、奥に前方部。


後円部から見る前方部。

 

前方部へ渡って振り返った後円部。長軸は北東を向いています。

 

舌状台地の先端にあって眺めがよいです。北東方向。

 

東に砺波平野が広がります。

 

雲がかかっているのは立山連峰だと思います。