墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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若宮古墳群(若宮1・2・3号墳、墳丘墓) 山口県下関市綾羅木

下関市考古博物館の北西隣に広がる綾羅木郷(あやらぎごう)遺跡。

史跡 綾羅木郷遺跡 西地区
海岸を見晴らす西地区の丘には、弥生時代の中ごろから古墳時代にかけてつくられた多くの墓があります。これらは弥生時代前期の集落の跡に築かれたものです。
昭和31年以来、永い期間にわたって発掘調査が行われました。その成果にもとづいて、昭和57年からこれらの墓の保存工事が進められ、つくられた当時の姿に復原されました。
前方後円墳の若宮1号墳は、5世紀の中頃、下関の一帯を治めていた人物の墓だと考えられます。この古墳の北には、重なり合った5基の墓があります。これらは、弥生時代の中頃から若宮1号墳の築かれるまでの間に順次つくられたものです。盛土があるので墳丘墓と呼ばれます。
また、若宮1号墳の周囲には、6世紀の中ごろに築かれたとみられる、2・3・4号の3基の古墳があります。すべて円形墳で、1号墳と2号墳の外側には溝(周溝)が掘られています。
これらのほか、石を組み合わせてつくった2基の組合式箱式石棺(若宮1・2号石棺)も地下に保存されています。
文化庁・山口県・下関市
平成2年3月

 

グーグルアースにも、くっきりと。

すぐ西に山陰本線が通っていたのですね。駅(梶栗郷台地:かじくりごうだいち)へは徒歩2分と。

 

解説板から緩やかに上がって行くと、行く手に前方後円墳が。

 

手前の円形植え込みは、3号墳の範囲。

若宮3号墳
年代 推定5世紀
若宮古墳の南に位置するこの古墳は、昭和33年の発掘調査の結果、直径8mぐらいの円形墳と推定され、その中に1基の組合式箱式石棺(内側の長さ188㎝、幅北端43㎝、南端30㎝)が納められていました。石棺内には30歳前後の男性が埋葬されており、遺体のそばには鉄製の直刀(約76㎝)と小刀(約18㎝)が副葬されていました。
昭和61年と62年にあらためて確認調査を行いましたが、古墳の高さなど元の形を明らかにすることができなかったので、若干の盛土と植栽によって位置を示しました。

文化庁・山口県・下関市 昭和63年3月

 

若宮1号墳を前方部右裾側から。

 

上記の右端に写っていたのは2号石棺墓の説明板。

2号石棺墓
年代1~4世紀
この石棺は、昭和61年の発掘調査の結果、北西向きに板状の石を箱形に組み合わせた棺(組合式箱式石棺)であることがわかりました。蓋は、花崗岩と緑泥片岩の2種類の板状の石を交互に4枚並べてありました。
石棺の内側の大きさは、長さ1.07m、幅0.22m~0.30m、深さ0.20mです。
この石棺は、地下に保存してあるため、その場所に説明板を立てて位置を示しました。
文化庁・山口県・下関市 平成元年10月

 

地下に埋まっているので説明板以外は何も。

 

こちらが若宮1号墳(若宮古墳)の解説。

若宮古墳
年代 推定5世紀中頃
古墳の長さ39.7m
前方部の高さ2.3m、先端の幅15.1m
後円部の高さ4.0m、直径21.0m
周濠の幅4.3m
この古墳は、綾羅木郷遺跡北西隅近くに位置を占める南西向きの前方後円墳です。
墳丘は、後円部が3段、前方部が2段に築かれています。
墳丘の表面は葺石で覆われ、墳頂や段には円筒埴輪や壺形埴輪が並べられていました。
後円部中央には、白色の粘土で密封された組合式箱式石棺がありました。
この石棺の大きさは長さ2.85m、幅1.10m内外。中には2体以上の人骨が埋葬され勾玉・管玉などの装身具、鉄製の刀や剣などの武器、斧などの工具が副葬されていました。
墳丘の裾には、幅4.3mの濠がめぐらされていました。
この古墳は、昭和33年から5回にわたる発掘調査の結果に基づき、昭和60年度に墳丘を保護するために、元の姿より少し大きく復原し、斜面に芝を植え、周濠には砂利を敷いて整備しました。埴輪列の復原については、資料が少ないため今後の調査をまつことにしました。
文化庁・山口県・下関市 昭和62年3月

 

若宮1号墳の前方部に上がって、後円部方向を。

 

雲がドラマチックに。

 

後円部から振り返った前方部側。


後円部墳頂から西方向。うっすらと水平線が。海岸までは700m強。

 

南東方向。右奥、綾羅木川の南に新下関の市街地。

左手前は2号墳の説明板。

 

北東側の山塊。


後円部の先には弥生時代の墳丘墓。

 

5基がぎゅうっと。

墳丘墓
年代1~4世紀
墳丘の長さ10.44m、幅8.08m、高さ1.00m以上
頂部の平坦面の長さ6.84m、幅4.00~4.40m
この墓は、弥生時代中頃から若宮1号墳が築かれるまでに作られた墳丘墓と呼ばれるもので、昭和60年と61年の発掘調査の結果、見つかりました。
この墳丘墓は、弥生時代前期に使われていた貯蔵用のたて穴が埋まった後に、まわりを削って整地し、盛土(墳丘)をして作った墓です。
頂上には5つの墓が重なり合って作られています。これらの墓は土を掘って作った穴(土壙)に遺体を納めたものと、板状の石を箱形に組み合わせた棺(組合式箱式石棺)に納めた2種類があります。
1号、2号、5号は、組合式箱式石棺です。3号は土壙のふちを板状の石で囲み、4号はさらに板状の石で蓋がしてありました。
これらの墓がつくられた順序は、古いものから4号、5号、1号、2号、3号です。
遺骨は残っていませんでしたが、3号からアクセサリーの一部である管玉が1点、4号から弥生土器が見つかりました。
なお、この墳丘は、若宮1号墳がつくられた際、南側が大きく削られました。
整備にあたっては、遺構を保存するために全体を少し高く盛り土として墳丘を作り、新しく石棺や土壙を復原しました。
文化庁・山口県・下関市 平成元年10月

 

北西方向から見る若宮1号墳。右に前方部。


こちらが2号墳。1号墳の100年以上後の築。

若宮2号墳
年代 6世紀後半
墳丘の直径6.4m、高さ推定0.8m
周濠の幅1.5m
この古墳は、昭和60年の発掘調査の結果、古墳の盛土(墳丘)のまわりに堀(周濠)をめぐらせた円形墳であることがわかりました。
墳丘の中心には、板状の石を箱形に組み合わせた棺(組合式箱式石棺)が一つ埋められています。
しかし、畑の開作などによって、墳丘も中の石棺もひどく壊されていました。
文化庁・山口県・下関市 平成元年10月

 

2号墳のあたりからの1号墳。

とても気持ちの良い古墳公園でした。海が見えればもっと…