墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

近つ飛鳥風土記の丘(一須賀古墳群)その3 展望台 大阪府南河内郡河南町東山

前回のD4号墳から園路に戻って展望台を目指す。

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園路左手の巨石は、石室石材か露頭箇所なのか。深入りせずに園路を登る。

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第一展望台に到着。北西方向が遠望できた。

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ズームすると、あべのハルカスも(右)

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あべのハルカスまでは約20㎞。手前の緑の”島々”(7㎞程先)が古市古墳群でした。

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来年には訪ねたいと思います。 

 

現地には”墳座同定図”もありましたが読み取れませんでした。

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うっすらと大阪湾も写っています。

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グーグルマップとにらめっこした結果、中央の緑の中でPL教団の円墳状の施設がありますが、その延長線上の奥のビルの後ろが仁徳陵(大山古墳)のようでした。

 

見渡すエリアの解説板がありました。

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古市古墳群と一須賀古墳群
遠く、河内平野にあたかも浮かんだかのような緑の小山の数々は、前方後円墳・円墳・方墳からなる古市古墳群藤井寺市羽曳野市)で、多くは5世紀、「倭の五王」の時代に築かれたものです。いまは樹木に覆われた、応神陵古墳、允恭陵古墳、仲津山古墳などの前方後円墳は、元来は墳丘斜面に河原石を葺き、各段のテラスに埴輪をならべ、周囲には大きな濠をめぐらし、王や豪族の権威を誇示していました。
天気の良い日にしか見えませんが、大阪湾に面した段丘崖に沿って築かれた百舌鳥古墳群堺市)の仁徳陵古墳は、1日約1500人を使って、およそ16年近くを費やして完成した、と言われています。古墳時代の河内や大和には、こうした巨大な古墳が何基も築かれていたのです。
前方後円墳を頂点とした古墳の数々は、大和政権に組み込まれた豪族の身分の高低を表わしているという説が有力です。つまり、墳墓をとおして地域支配者の権力や権威が内外に示された時代が古墳時代というわけです。現代人には一見、浪費とも思える壮大な墓造りが、当時の人びとには大きな意味を持っていたのです。
6世紀になると、葺石や埴輪などの装飾的な要素をもたず、横穴式石室を墓室にした、直径が10数mの小さな古墳が多数、密集して造られはじめます。これらを古墳群のなかでも特に群集墳とよびますが、その代表格がこの一須賀古墳群なのです。いままでの、豪族を通じて地域を支配する方式から、村落の有力な人びとを直接、支配するように変わったことの証と考えられています。
やがて7世紀には、畿内では古墳築造の風もようやくおさまり、ごく一部の限られた人びとしか古墳を造れなくなります。眼下に見える磯長谷や大和の飛鳥などは、そうした数少ない造墓がなされた地域です。 

 

第1展望台から少し下ったところに、北の磯長谷を望む第2展望台もありましたが、草の勢いが強く…

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「王陵の谷」の名前の響きに魅せられました。

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王陵の谷をJ支群
この案内板の正面、1㎞ほど向こうの、鳥居のある小さな森が推古陵古墳で、そのすぐ右の小さな林が国史跡二子塚古墳です。ここでは7世紀末頃の家形石棺が見学できます。はるか左手、前方の叡福寺には聖徳太子の古墳が祀られており、境内には松井塚古墳の横口式石槨が移築されています。
二上山西麓のこの磯長谷には、ほかに敏達陵・用明陵・孝徳陵といった天皇陵古墳をはじめ、貴族・官人層の墳墓が集中して造られ、エジプトの「王家の谷」ならぬ「王陵の谷」と呼ばれています。それらのほとんどは7世紀の古墳で、ことに用明陵や推古陵古墳は、300年以上にわたって、築造されつづけてきた前方後円墳が、消滅してすぐのちの方墳です。墳形の移り変わりや墳丘の小型化の背景に、支配者層のどのような観念の変化を考えるのか、興味深いところです。
よく知られているように、わが国の古代国家は東アジア世界の激動の中で、7世紀を通じ形づくられていきました。まさにその激動の時代を刻んだ貴重な歴史遺産が、いまも残っているのが眼下に望める磯長谷なのです。
目を風土記の丘に転じて、すぐ前の尾根にはJ支群が造られています。南に入口をもった横穴式石室のいくつかが見えますが、風土記の丘一帯に露出している花崗岩を割り取って運搬し、造ったものです。1基の石室にはかなりの重量の石材が必要だし、それだけの労働力を駆使できる人でないと、古墳は築けなかったということです。それにしても機械力のなかった古墳時代に、あのような巨石をどうやって運び、積み上げたのでしょうか。