墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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津山郷土博物館 岡山県津山市山下

津山まなびの鉄道館でディーゼル車両にまみれた後は、津山郷土博物館へ。

 

堂々としたその建物は、昭和9年築の旧津山市庁舎。

建物の由来
この建物は、津山市庁舎として昭和9年(1934)完成し、以後約半世紀にわたり市政の中心となった建造物である。当時の官庁建築の特徴をもった鉄筋コンクリート造の近代的な建物であった。
昭和57年(1982)山北の現庁舎へ津山市役所が移転した後、増築、改装を行い、「津山郷土博物館」として昭和63年(1988)開館した。

 

玄関に入ると大理石(?)の階段。

 

展示室に入ってまず目にしたのは陶棺。

こちらは須恵器の家形陶棺。

 

その後ろには亀甲形の土師質陶棺が3つ。

陶棺
粘土を焼き固めて造った棺。6・7世紀に古墳の埋葬施設として用いられた。赤褐色で軟らかい土師質陶棺と、青灰色で硬い須恵器陶棺があり、土師質陶棺には亀甲形と家形の2種類がある。全国の土師質陶棺の約70%が美作から出土している。

 

●陶棺
陶棺は主に古墳の横穴式石室に収められた、焼き物で作られた棺です。木棺や石棺のように一般的に使われていた棺ではなく、日本列島内では、北は福島県から南は佐賀県まで約800基が出土していますが、このうち70%が岡山県、さらに県内の約70%が美作地域からの出土です。つまり全国の出土数うちの約半数を美作地域が占めており、古墳時代後期の美作地域を特徴づける遺物といえます。
陶棺は、蓋をのせた身の底面に円筒型の脚部がつきます。焼き上げたときの温度の違いにより、赤茶色の土師質と灰色の須恵質に分けられます。また蓋の形から、亀の甲羅に似た亀甲形と家の屋根の形をした家形の2つに分けられます。美作地域では、土師質亀甲形の陶棺が圧倒的に多く出土しています。陶棺の作り方はとても風変わりです。まず最初に身も蓋も一体となった大きな卵ように棺を形作ります。蓋の内側に丸い穴をふさいだ跡が必ずあり、これは最後の仕上げをするために職人が手を入れるための穴です。粘土がある程度乾いてから身と蓋を分離し、それぞれを二つに切り分け、四つの部品として焼き上げます。 四つの部品の間には、あらかじめ分離しやすいように木の葉を挟んだ痕跡や、 分離するときに粘土を少しずつ切り進めた痕跡を確認することができるものもあります。陶棺は焼き物としてはとても大きく、蓋と身を別々に作ると湿った粘土の状態では側面の壁の重さを支えることができずに壊れてしまうため、このような製作技法をとらざるを得なかったと考えられています。

 

蓋も身も2つに分かれているの理由がよくわかりました。

 

高さ・幅もさまざま。

 

真ん中の細長いタイプ。


その背面には石積み?


ここにも陶棺。ディーゼル車両の次には陶棺にまみれました。

平福の祇園畝2号墳の石室復元模型。

その副葬品。

 

津山市のさまざまな古墳からの出土品。

 

的場古墳からの馬具、須恵器、甑も。

 

津山市河辺天神原1号墳の環頭大刀や、勝央町岡高塚古墳の筒形銅器など。

 

美和山古墳群からの埴輪片。古墳時代前期。

 

日上天王山古墳の壺形土器口縁部片。古墳時代前期。

 

津山市の古墳マップ。壮観です。

 

弥生時代の展示。


もっともっと遡って、1500万年前の化石も。

 

パレオパラドキシアという哺乳類で、津山市で当時の中学生が発見したそうです。

 

美作国分寺の伽藍模型。現地に看板があったのは金堂の右前隅あたり。

 

津山城のジオラマもありました。


かつての議会場も展示室。右奥の屏風絵は津山藩の御用絵師だった鍬形蕙斎(くわがたけいさい・別名:北尾政美 きたおまさよし)による江戸名所之絵。

ちょうど東京スカイツリーあたりからの視点になっているそうです。


郷土博物館の周辺には、気になる建物がいくつかありました。

すぐ西側にある森本慶三記念館(旧津山基督教図書館)は、1926年に青森県弘前市の設計技師「桜庭駒五郎」が設計、施工。建物は大正末期の洋風建築の流れを汲んだデザインで、後方に時計塔と十字架が配置された構造とのこと。今回は時間の関係で外観(しかも側面)のみ。森本慶三記念館 | つやま自然のふしぎ館