八畳岩古墳から西への尾根道沿いには点々と墳丘が続きます。
こちらは沢田裏山古墳(操山17号墳)
その、堂々たる開口部。
が、室内はかなり埋まっていて、匍匐しないと進めない高さでした(ので、覗いただけに)
さらに西へ進み、三叉路を左へ進むと旗振台古墳(操山14号墳)に。
一辺27mの方墳です。
旗振台古墳
古代の瀬戸内海沿岸航路を前面に望む尾根頂部に築かれている方墳で、一辺27m、高さ4mを測り、墳丘には葺石を施して、形象埴輪や円筒埴輪を設置している。埋葬施設は、墳丘頂部の中央に尾根筋の方向に沿って竪穴式石室とその両脇に粘土槨がけてあり、石室から短甲・剣・刀・鉄鏃などが、両粘土槨から冑・短甲・剣・刀・鉄鏃・ガラス小玉・メノウ小玉・勾玉などが出土している。
築造時期は5世紀前半に推定される。この古墳は、中型規模の本格的な形状の方墳で、当時の吉備国の一部を治めた豪族の有力な構成員が葬られたと考えられる。
光さす墳頂へ。
墳頂の様子。樹木が繁っていて眺めは得られず。
反対側に降りて振り返って。
降りたところに東屋が。
そこからの展望(南東方向)
向かいは金甲山~貝殻山で、山の手前側には現在の児島湾の海面が見えました。
干拓前は目の前まで内海が来ていたのでしょう。
表示板には吉井川、百閒川、旭川も記されていました。
グーグルアースで。児島湾をぐるりを見渡す位置に、操山があることがわかります。
標高169mの操山には約130基の古墳が築かれているそうです。