墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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下御倉古墳 熊本県阿蘇市一の宮町手野

中通古墳群から迎平古墳群を経て、阿蘇外輪山への谷戸奥の国造神社、その参道脇にある下御倉(しものおくら)古墳、上御倉(かみのおくら)古墳へ向かいました。

 

国造(こくぞう)神社の参道。この左に駐車場があります。

 

そのすぐ南側、池の向こうに墳丘が。

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回り込むと説明板。

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県指定史跡 下御倉古墳
(昭和34年12月8日指定)
下御倉古墳は直径約30m、高さ約4.5mの円墳で、内部には複式の横穴式石室があります。北川にある上御倉古墳に比べてやや規模が小さいですが、石室全体の奥行は8.7mあります。古くから土砂が流れ込み、正確な高さは不明です。石室の奥には遺体が葬られた玄室があり、玄室の構造は、奥行2.9m、幅2.47m、高さは約2mです。正面奥壁にそって石屋形が置かれ、この部分に遺体が納められていました。石材は上御倉の場合と同じく阿蘇溶岩を用いていて、大きな石材を利用しているのが特徴です。
上御倉・下御倉古墳は古墳時代後期(6世紀頃)の特徴を示す典型的な石室構造をしており、県内にある横穴式石室を採用した古墳のなかでも比較的規模が大きいものです。
両古墳が作られた時期は県内最大規模の長目塚古墳を有する中通古墳群に後続する時代で、日本書紀にみえる「阿蘇君 あそのきみ」が「国造 くにのみやっこ」として阿蘇一帯を治めるなかで中通から手野の地へと本拠地を移したと推測されています。
古墳の眼下に広がる平野は、古くから開発が始められたところであり、古代の土地区画である「条里制」に基づいて、いち早く土地が開拓されました。上御倉・下御倉古墳に葬られた人物は、このような阿蘇谷の開拓を指揮した有力な指導者であったと想像できます。

 

説明板の石室実測図。石屋形もあります!

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どんな石室か、期待を高めながら南側の開口部へ回り込みます。

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開口部ですが…

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完全に埋まっていました。

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南西の斜面下側から見た墳丘。開口部は右奥になります。


振り返ると谷を見下ろすことができました。


次は、さきほどの「池」の北側の、上御倉古墳へ向かいました。

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