墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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小田良古墳 熊本県宇城市三角町中村

三角西港の街並みを見た後は、宇土半島の北岸沿いの国道57号を東へ向かいます。

左は有明海。山が海岸近くまで迫ります。

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小田良(おだら)古墳は小田良漁港のある集落の、海岸近くにありました。

 

駐車場はありません。

交通量の多い国道57号ですが路肩は狭く、一旦通り過ぎて戻りました。

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ガードレールから見える覆い屋。

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有明海の向こうに雲仙岳。

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覆い屋の前の説明板。国史跡、6世紀前半の装飾古墳です。

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(小田良古墳)
小田良古墳は地元の人が「チンカンサン」」と呼んでいた石塚で、昭和53年に当時の三角町教育委員会によって発掘調査が実施され、装飾古墳であることが確認された。
古墳時代後期6世紀前半頃築造されたもので、古墳の主体部は厚さ約10㎝の砂岩板石4枚で石障が造られ、西側の石障には刳り込みがあって、入口となっている。東西3.55m、南北3.30mの方形で、内側には左右に2区の屍床が作られている。
4面の石障には、それぞれ文様が施され、奥障には二つの楯、靭、2本の沈線で固定された3個の円文が描かれ、あとの3面は全て2本の沈線で固定された円文が描かれている。また、多量の玉類や2個の銅製鈴、異型銅製品、刀子片、人骨片、刃などの遺物が、主に北側屍床から出土している。
昭和54年10月23日 国指定史跡
宇城市教育委員会

 

石障と呼ばれる側壁に、円文などが描かれます。

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海に向かって立っている説明板。

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国指定史跡 小田良古墳
昭和54年10月23日指定
宇土半島の北岸の代表的な古墳の一つで、6世紀前半の装飾古墳。地元では「チンカンさん」と呼ばれる石積の下から、昭和52年2月に装飾古墳が見つかり、昭和53年三角町教育委員会の調査で全容がわかった。
古墳の主体部は東西約3.5m南北約3.3mの方形に、砂岩の板石で石障を造り、西側に入口をもつ。内側には左右に二区の屍床が設けられている。
装飾文は石障の四面に描かれている。奥障には中央部に二個の楯、その外側に靭を描き、楯と靭の間には二本の沈線で固定された三個の円文が描かれている。他の三面はすべて二本の沈線で個定された円文で、左側に四個、右側に三個、入口に二個描かれている。
出土品は左屍床から多量の玉類、銅製鈴、異形銅製品、刀子が、右屍床から刀子が出土している。
熊本県教育委員会 昭和63年3月建

 

覆い屋の中はどうなっているか。

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石垣の内側は土砂で埋まっていました。

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熊本県立装飾古墳館にレプリカがありました。奥壁に向かって左右に屍床。

 

円文が何を表すかは説明されていませんが、鏡のように感じます。

 

装飾古墳館の説明板。

国指定史跡 小田良古墳 5世紀
天草に向かう国道57号の右手の海岸にあり、墳丘を失っているが、円墳であったらしい。内部は割石をドーム状に積み上げて築いた横穴式石室と考えられている。石室の幅は2.2m、長さ2.30mのほぼ正方形で、通路をはさんで左右に屍床を設けている。側壁にそって約0.3mの板石をめぐらし、それぞれの板石の内側に2条の横線をきざみ、その間に向かって正面には靭・盾をそれぞれ2個ずつと同心円文を3個、左側には円文4個、右側には円文3個、手前にも円文2個が刻まれている。石室からは人骨一体分と猪・犬・馬などの骨のほか、ガラス製なつめ玉・臼玉・直刀・鉄剣・銅製品などが出土した。

 

有明海も、鏡面のような穏やかさでした。

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