前回の京塚古墳から、いよいよ江田船山古墳へ。
立体模型つきの説明板があります。背後の墳丘は左が後円部、右が前方部。
■史跡の概要
江田船山古墳は、清原台地に造られた前方後円墳です。この台地には他に5基以上の古墳が築造されていたと考えられています。古墳内部に納められた家形石棺からは多くの遺物が出土しており、5世紀後半頃に造られたと考えられています。
清原台地は、舌状に広がる標高約30mの低丘陵地です。
西は菊池川、北は江田川の流路で区切られています。■古墳の復原
この古墳は、つくられたときから長い年月がすぎ、形が変わっていました。
左の模型はつくられた時の形を発掘調査の結果などをもとに、推定して復原したものです。
墳丘の斜面には、三段に分かれて葺石列があり、墳丘の上には埴輪が並べられていました。
■築造時の話
この古墳をつくったときは、約500日の期間をかけ、合計約7万人の人が必要であったと考えられます。
■周溝
周溝とは墳丘の周囲に巡っている溝で、墓域をはっきりとさせるために掘られることが多かったようです。この古墳の周溝は深いところで2.6m、朝日tころで1.7mの深さがあることが、発掘調査によってわかりました。
■出土遺物
この古墳の家形石棺からは銀象嵌による銘文をもつ大刀や金銅製の冠帽、金製の耳飾り、金銅製の沓(くつ)、中国製の銅鏡をはじめ武具や装身具、馬具など200余点が出土しています。これらの貴重な遺物が多数出土したことで、江田船山古墳は大変に有名です。
■整備の話
江田船山古墳の保存と整備のために、平成元年度に後円部墳丘にある家形石棺尾保存整備工事を行いました。
平成2年度には、つくられた時の古墳の大きさがわかるように、周溝の調査と墳丘の整備を行いました。
墳丘の規模は全長62m、後円部径41m・高さ10m、前方部幅40m・高さ7.5mの前方後円墳で、左右の括れ部付近にある造り出しは右が突端部長8m・幅5m、左が突端部長8m・幅3mとのこと。
周溝越しに墳丘を。
中央がくびれ部、その奥に階段があります。
まずは周囲を一回り。後円部先端側から。
後円部と周溝。
反対側の側面。右手前が後円部、中央の出っ張りが造り出し。
逆側のくびれ部。
後円部の斜面の様子。
2段目から上部は、石室を見学できるようにしてあるからか、あえて復原を抑えている感じです。
前方部先端部の直線。右奥は京塚古墳。
引いた位置から前方部先端側を。
前方部左裾から。
同じ位置から広角で。
造り出しが結構先端側近くまで来ています。
その造り出しの上に解説が。
造出部
造出部(つくりだしぶ)は、くびれ部の左右に付け加えられた墳丘のことを言います。方形をしたこの造出部から多くの遺物が出土しました。儀式の場として使用されていたと思われます。
■今までの発掘の歴史
江田船山古墳が最初に発掘されたのは明治6年(1873)です。家形石棺から貴重な多数の副葬品が出土しました。
大正6年(1917)に、浜田耕作・梅原末治両氏により調査が行われその後、研究が発展していきました。
■造出部の発掘調査
昭和60年に周溝調査が行われ、位置と深さがわかりました。そして墳丘に造り出しがあることがわかりました。
この造り出しのしばから遺物がまとまって出土しました。造り出しが儀式の場として使われたと考えられます。家形石棺の入口はこの造り出しに向いています。ここから石棺へ行く墓道があったと考えられます。
この造り出しで墓前祭などが行われたと考えられます。この場から墓道を通って石棺へ向かいました。
前方部の墳頂に上がって後円部方向を。
鞍部から後円部。左下は石室見学施設入口です。石室長軸は、左くびれ部方向を向いています。
こちらが墳頂。だいぶ狭くなっています。
墳頂から振り返った前方部。
見学施設は自由に入れるようになっていました(訪問時2021年11月)
中に入ってガラス越しの石室。
内側に水滴のついたガラス面を、ゴムの窓ふきを上下させてしっかり見えるようになります。
広角で。
妻入り、つまい短辺側に四角い穴のある、横口式の家形石棺。
蓋石は頂上が平たい寄棟屋根形。縄掛け突起は実用性というより装飾性でしょうか。
ガラスはすぐに曇っていきます。
最初はこんな状態でした。
内側の説明板は読めず。
穴の縁の切込みは閉塞石で蓋をするためでしょうか。
せっかく、石で棺をつくって蓋をつくっているのに、わざわざ側面に出し入れ口があるのは追葬のことを考えてのことでしょうか。
こちらの家形石棺は土に直接埋まっていたようなので、横口に意味があるとは思いますが、出雲では横穴式石室に置かれた家形石棺の側面、しかも長辺側に大きく穴が開いていたので不思議に思いました。
江田船山古墳の石棺からは、最初の解説のとおり豊富で豪華な副葬品が出ていますが、下記の本によれば出土品に時期幅あるため二度の追葬があったと考えられているそうです。
副葬品のなかでも、銀象嵌の大刀は75文字の銘が刻まれ、その文面からは被葬者「ムリテ」が雄略天皇から下賜された刀と解釈できるとされています。
その出土品は、上野の東博で常設展示されています。
側面には魚や鳥、反対側に馬が象嵌で描かれています。
そのほかの出土品も。
冠帽や冠、耳飾りや飾履。
冠帽は、ソウルの漢城百済博物館でレプリカを見ました。
先の「九州の古墳」によれば、副葬品には百済からの舶載品も多く含まれているとのこと。
飾履の、新品レプリカも!
こちらは2018年8月に訪ねました。
2021年11月の肥後墳行に戻ります。
つづく。