前回の旧寺古墳群からは南へ車で30分、三次市吉舎(きさ)町の三玉大塚(みたまおおつか)古墳へ。
途中で通った牧草地がきれいだったので車を停めました。
マップを見たら「七塚原高原ポプラ並木」というピンが立つあたりですね。
その先で、江の川の支流の馬洗川を、福塩線を横目にさかのぼって吉舎町へ。
吉舎駅のすぐ南、吉舎小学校への急坂をさらに上がった丘上に見事な墳丘がありました。(墳丘そばまで車で上がれます)
小さな前方部(というか造り出し部)の右裾から。スマホ広角なので前方後円墳のようにみえますが。
こちらの説明にあるように「帆立貝式古墳」です。
広島県史跡
三玉大塚古墳
指定年月日:昭和53年(1978)10月4日
所在地:広島県三次市吉倉町三玉大塚493-1
所有者:宗教法人 宝寿寺
この古墳は、直径34m、高さ7mの円丘の北東部に造出部がつく全長46mの古墳で、その形から「帆立貝式古墳」と呼ばれている。古墳の下端から造出部までは地山を削って整形し、その上に削った土を盛って造られており、三次盆地有数の規模を有する。古墳の周りには幅3mの溝、その外側に同じ幅の外堤がめぐらされ、墓域がはっきり確認できる。
明治36年(1903)に円丘部頂部から竪穴式石室が発見され、石室内から鏡・玉類・鉄斧・鉄鏃・筒形銅器・兜・短甲(鎧)などきわめて多くの遺物が出土して注目された(遺物の多くは東京国立博物館が所蔵)
また、昭和56年(1981)には環境整備に伴う発掘調査が行われ、葺石が3段にわたって帯状にめぐらされていることなど、古墳の外郭施設が明らかになった。
さらに、墳丘上からは須恵器や馬・家・蓋(傘)などの埴輪も出土している。
この古墳は、出土遺物から5世紀後半に築かれた古墳と考えられ、規模・形・遺物等により、当時この地域を支配した首長の墓とみられる。
三次市教育委員会
測量図部分を拡大。左側に造り出し部がついています。
造り出し部の左裾から。高さがあって(造り出し部も)迫力あります。前方部が若干短い前方後円墳と呼んで差し支えないのでは。
造り出し部から墳頂を。
広角で。
墳頂に上がると、竪穴式石室の天井石が置かれていました。
反対側に回り込んで。
横から見たところ。
後円部の先端方向には山々が。
振り返っての前方部方向。
吉舎の町の北側が見渡せます。地理院地図で見るとここが標高287m、橋脚下あたりの川面が203mなので、比高差80m以上になります。
尾道自動車道の橋脚。奥では山肌から雲が沸き立っていました。
後円部の先端側、実測図にあった第2号古墳。
図には盗掘孔も示されていましたが、草が載っていて観察はできませんでした。