前回の小松原古墳群を見た後は、出水市を抜けて黒之瀬戸大橋を渡って長島へ。
初めて訪ねた島ですが、八代海の南端にあり、八代海から東シナ海に出るには長島の北か南の海峡を抜けねばらないという大きな関所のような位置にあります。
瀬戸内海における淡路島のような感じでしょうか。
加世堂(かせどう)古墳は、島の南東側の海峡に面して築かれています。
長島に渡ったところが山門野(やまどの)で、加世堂湾の港へ降りていくと、集落の奥に加世堂古墳の看板が!
看板の方向は左。
その先の分かれ道の手前に車を停めさせていただいて、林道に入ります。
下記のようなすれ違いポイントはありますが、古墳のあたりまではUターンできるスペースは無かったです。
古墳の看板は間近でないとわからない位置にありました。
道から見上げた先に露出した石室が。
斜面を上がって近寄ります。
説明板完備。
鹿児島県指定史跡 加世堂古墳
この古墳は、昭和46年6月に発見され、同年8月23日から月末にかけて、当時出水高校教諭であった池水寛治氏等の指導によって発掘復元されたものである。
形式は、7世紀初頭の横穴式石室を有する帆立貝形前方後円墳で、墳丘は長径8.4m・短径7mである。
横穴式石室をもつ古墳としては九州西海岸における南限である。
この古墳の発見により、古代の海上交通路長島海峡だけとされていたが、黒の瀬戸を利用した海上交通も確認され、加世堂湾が汐待ちなどに関係して古代から瀬戸を押さえる拠点としての位置も解明できると思われ、大和朝廷の隼人政策上の海上交通、軍事的な意義づけなど、古代史の謎を解く貴重な文化財である。
この古墳は、昭和58年4月13日に県の指定を受けた(昭和52年3月31日付の町指定は解かれる)
昭和59年9月1日 東町教育委員会
草むらの中に、もう一枚。
草をかきわけて文字のところだけ。
鹿児島県指定 史跡 加世堂(かせどう)古墳
指定日:昭和58年4月13日
加世堂古墳の発掘調査は、昭和46年8月23日~30日、当時出水高校教諭であった池水寛治氏と考古学部OBが加世堂公民館に合宿して行いました。
古墳は、肥後と薩摩の境界であり軍事・交通の要衝であった黒之瀬戸海峡を望む加世堂湾の標高25mの斜面にあたります。
古墳の形状は、直径8mほどの円墳の一端がテラス状に張り出す”帆立貝形”で、墳丘には礫がていねいに葺かれていたと考えられますが、時間の経過や樹木の繁茂で大きく変形してしまいました。
遺体を安置する石室は奥行2.5mの横穴式石室で須恵器や鉄刀、鉄鏃が発見されました。
これらのことから、加世堂古墳は6世紀後半から7世紀初頭に造られたと考えられます。
長島町教育委員会(平成22年10月設置)
石室内の様子です。
入口が非常に狭く、身体が石を押してしまいそうなので、入室は断念しました。
横から。右が開口部。
逆サイドから。
背面側から。
少し下の道路際にも、石室材のような巨石がころがっていました。
道路の反対側は崖になっていて、樹木の間から加世堂湾の海面がチラリと見えていました。