墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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綾戸古墳 岐阜県不破郡垂井町綾戸

前回のつづき、昼飯大塚古墳へ向かう途中で、いくつかの古墳を。

こちらは垂井町の綾戸古墳。

 

スマホ広角で。
古墳の周りの広場ではゲートボールで大賑わいでしたが、休憩タイムになったので撮れました。

 

墳丘への小径が整備されています。

 

説明板によれば、かつては横穴式石室が開口していたとのこと。

垂井町指定史跡 綾戸古墳(円墳)
昭和60年12月10日指定
綾戸古墳は平地に位置する古墳時代終末期(7世紀以降)とみられる円墳。墳丘の大きさは直径32mと大きく、周濠や葺石の一部が確認されている。かつては横穴式石室が開口していたとする記録が残り、特異な須恵器の三足壺や鏡が付近から出土したと伝えられている。
ここから東へ約1㎞のところには、三角縁神獣鏡や石製品が出土した前方後円墳の史跡・矢道長塚古墳がある。
垂井町教育委員会

 

謡曲「熊坂」にまつわる解説も。

謡曲「熊坂」と長範物見の松
熊坂長範(張範とも)は平安末期の大盗といわれ美濃国赤坂で、鞍馬から奥州へ下る金売吉次一行を襲い、同行していた牛若丸(のちの義経)にかえって討たれたという伝説的人物ですが、これを脚色したのが謡曲「熊坂」です。牛若丸が強盗を斬ったことは「義経記」などにも書かれていますが、これ等を参考にしてえがかれたものでが謡曲でしょう。
その長範がめぼしい旅人を物色するため様子をうかがっていたというのが、この一本松で「物見の松」といわれています。松のあるところは中山道と東海道が左右に走る中間にあり、昔は草ぼうぼうの青野ヶ原だったといわれていますが、今も当時の面影を残しています。付近は古墳で、かって濠があったといいます。
謡曲史跡保存会

 

解説にあるとおり、古墳の北は旧中山道、すぐ南には美濃路(東海道の時期もあった?)

 

さあ墳頂へ。

 

墳頂には「武内大神」の碑。

 

登って来た小径を見下ろして。

 

その右手(西側)斜面の踏み跡。

 

斜面を降りて左手を。

 

右手を。

 

 

岡田堂古墳から綾戸古墳への道すがら、喪山古墳へも立ち寄りましたが…

 

下から見上げるしか、為すすべがありませんでした。

垂井町には他に幾つもの古墳が点在していますが、事前の下調べが甘くてほとんどスルーしてしまいました…