今回の古墳旅では、特別史跡・吉野ヶ里遺跡(吉野ヶ里歴史公園)も訪ねました。
入園料一般460円(500円の2日通し券も)
昭和50年代に大規模な工業団地造成計画があり、発掘調査で弥生期最大規模の環壕集落であることが確認され計画が縮小変更され、平成4年に一部の国営歴史公園化が決定され、平成13年4月から国と県が一体となった歴史公園として開園したそうです。
現在の面積は約105.6ha(国営公園約52.8ha、県立公園約52.8ha)と、TDR+TDSを凌ぐ広大さ。
そのうち、壕で囲んだ環壕集落跡の40haが国の特別史跡に指定されていて、発掘調査をもとに復元された建物の数はなんと98棟(!)
紀元前5世紀から700年続いた弥生時代の遺跡です。
下記が園内マップ。
歴史公園センターのある東口から入って、あまりの広さに途方に暮れましたが、ちょうど出るところだった園内バスに乗って、まずは北の甕棺墓列へ向かいました。
甕棺墓列エリアを北の端から。
群集墳のような様子です(実際そうなのですが)
それぞれの土盛りには甕棺が。レプリカですが生々しい。
甕棺の埋葬方法
地面に深さ2m程度の穴を掘り、先に据えた甕に遺体を納め、もうひとつの甕で蓋をするようにし、合わせ目には粘土で目張りをして埋め戻されていたと考えられています。さらに土まんじゅうで目印を作ったと考えられています。
南側から。右奥から歩いてきました。
甕棺の数はこのエリアで1000基。遺跡全体では3000基も。
甕棺墓列
甕棺は、日本では弥生時代の北部九州に特色的なお墓です。
吉野ヶ里遺跡全体ではこれまでに約3000基を超える甕棺が確認されており、そのうちこの墓列では1000基以上に及びます。この場所の特徴として、中央に母堂を設けるように2列に甕棺が埋葬されています。
血縁関係同士でまとまっているようです。
一族の集まり
長大な墓列もよく見ると墓列の長さが、おおむね長さ20mから40mごとに、ひとかたまりとなっています。
血縁関係のある一族の集まりと考えられています。
甕棺墓列からは南に、もとのゲートへ向かって歩きました。
こちらは「北墳丘墓」、かなり大きな土盛りです。
土盛りの内部が展示施設となっています。
この甕棺は実物。
埋葬の様子の実物大展示。
この見学施設は「北墳丘墓」内に造られていますが、もともとは平面隅丸長方形(40m×27m)で高さ4.5mと考えられるとのこと。
2100年前のこの地に
今からおよそ2100年前、弥生時代中期(紀元前2世紀~紀元1世紀頃)吉野ヶ里遺跡北側の標高約25mの段丘上に巨大な墳丘墓が築かれました。この墳丘墓は、南北約40m、東西27m、盛土の高さは4.5mの平面隅丸長方形であったと考えられています。この墳丘墓からは、成人用の甕棺が14基発掘され、その多くから身分を示すと考えられる銅剣や管玉が発見されました。そのため、この北墳丘墓は、弥生時代中期の吉野ヶ里遺跡の歴代の王または首長と考えられる人々が葬られていたと考えられており、吉野ヶ里遺跡の中でも弥生の「クニ」社会を裏付ける最重要遺構のひとつとなっています。
その先に、塀に囲まれた「北内郭」
鳥の居る門を入ります。
巨大な祭殿が復元されています。
内部では儀式の場面も。
北内郭エリアには9棟を復元。4つある櫓の一つから。
その背面側には北墳丘墓(中央)、その後ろの森の先が甕棺墓列です。
環濠には逆茂木と塀がセット。戦いの匂いがします。
こちらは南内郭エリア。
南内郭エリアは支配者層の生活の場と考えられていて、物見櫓4棟、竪穴住居11棟の他、集会の館や煮炊き屋など20棟の建物を復元。
南内郭にある展示施設にて。
こんなに大量の焼き物を、よくつくったなあと実感しました。
このほかにも、「古代の森体験館」や「倉と市」エリア、「南のムラ」や「祭壇」、「弥生くらし館」などもあるのですが、一日かけても回り切れそうにないので次の機会としました。