矢谷(やだに)古墳は前回までの「みよし風土記の丘」の3㎞北西、三次盆地中央の丘陵上に立地。
工業団地をうろうろした末に墳丘の南西側に入口となる駐車場を見つけることができました。通り抜けた先には立派な標柱も。
上がった先には、四隅突出型墳丘墓!
詳細な解説が。
史跡 矢谷古墳(矢谷弥生墳丘墓)
所在地:三次市東酒屋町字松ヶ迫
指定年月日:昭和54年(1979)3月13日
指定面積:13,100㎡
この遺跡は、今から約1700年前の弥生時代終末期から古墳時代初頭にかけて築造された四隅突出型墳丘墓とその西側の2基の方形区画墓および古墳時代後期の須恵器窯跡から成っています。三次工業団地の造成工事に伴って、昭和52~54年(1977~79)に広島県教育委員会によって発掘調査されました。
この型の墳墓は、島根県の出雲地方を中心とする日本海沿岸地域によう見られるもので、墳丘の四隅が対角線状に外側に張り出している特異な形状をしています。墳丘は尾根の高まりを利用して造られ、斜面には貼石を施し、墳丘裾には石列をめぐらせています。また、墳丘長辺の一辺(東辺)に、くびれ部があり、前方後方形状にも見える変則的な平面形となっています。墳丘の規模は、全長18.5m、くびれ部より南側の長さ6m、北側の長さ12.5m、高さ1.2mで周囲には幅2mの周溝がめぐっています。埋葬施設は11基の土壙・木棺・石棺からなり、なかでも北寄りにある中心的な埋葬施設と考えられる木棺を安置する穴は一辺が約4m、深さ2mの規模をもち、内部からはガラス小玉や碧玉製管玉そして死者を葬る儀式の際に使われた供献土器である鼓型器台などが出土しています。
また、この墳墓の周溝内からは組み合わせれば高さ1.5mにおよぶ特殊器台・特殊壺(国重文・広島県立歴史民俗資料館蔵)と呼ばれる大型の供献土器が約10個体分出土し、これらは岡山県の吉備南部地方で盛んに使用されたものと同じ土を使ってつくられています。
なお、平成24年(2012)の分析調査で、方形区画墓から出土したガラス小玉に、古代ローマ帝国で生産されたガラスの特徴的な成分であるナトロン(蒸発塩)が含まれていることが判明しました。
これらのことから、この墳墓は史跡花園遺跡(三次市十日町所在)などの集団墓地的な性格から一歩新しい時代へと移行した特定の首長層の一族の墓とみられ、古代の三次地方と陰陽の政治的、文化的交流を考察するうえで欠かすことのできない極めて貴重な遺跡といえます。
平成25年(2013)3月 三次市教育委員会
実測図部分を拡大。
四隅がビロンと突き出ています。右に見える東辺での角が、”前方後方形にもみえるくびれ部”と解説に記されている部分です。
スマホ広角で。
墳頂には墓壙跡の印が数多く。
先へ進んで振り返って。
北東側の突出部。
北(北西)側の突出部。
遠望は360度、山です。
その北西側突出部から振り返った墳丘。
裾に降りて、同じ方角を。
北東側の突出部の裾から。
上記の左に見えていた、”くびれ部”からの側面。
逆サイドの西辺にも、突き出た角がありました。
その部分を裾から。
ここから1㎞北東、丘陵下を流れる馬洗川は丘陵の北西、三次市街西端で江の川の合流。江の川は島根県江津市で日本海に注ぎます。
古墳時代に川でつながるネットワークがあったという証拠が、この四隅突出墓(出雲に多い)ですね!