墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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古曽志大谷1号墳 島根県松江市古曽志町

古曽志大谷(こそしおおたに)1号墳は一畑電車の朝日ヶ丘駅からも徒歩圏内(6分)、公園として整備された見学しやすい古墳でした。

 

昭和60年(1985)に朝日ヶ丘住宅団地の造成工事中発見されたのですが調査後削平され、200m東のこの場所に復元されて平成3年(1991)に古墳の丘古曽志公園として開園したそうです。

 

トイレもある駐車場完備。複数の古墳群を擁する、なかなか広い古墳公園です。

 

古墳の丘エリアには野外ステージも。

 

園内の最も標高の高い場所に移築復元された古曽志大谷1号墳。

全長45.5mの前方後方墳で5世紀末の築造。2段築成で葺石や埴輪も復元されて勇壮な姿に。

 

手前が前方部ですが、前方部の先端裾に造り出し(2列の円筒埴輪が並ぶところ)があり、その部分からは須恵器や土師器が多く出土したとのこと。

 

その造り出しの前から見上げた前方部。

 

葺石、埴輪、築造方法の説明板。

古墳をかざるもの 古曽志大谷1号墳(模型)
葺石:大谷1号墳の斜面には、全面に人の頭ぐらいの大きさの石がはりつけてあったと考えられます。特に目の前に復元してある部分は、まず約1.2m間隔でたて方向に石を一直線にはりつて、後でその間に石を埋めていくという方法でつくられています。規則正しく石をはるための工夫でしょう。
埴輪:古墳の頂上部や段の上、さらに古墳の外側の一部には埴輪が並べられました。これらの埴輪には、葺石でかざられた古墳をさらにかざるという意味のほかに、古墳とその周囲を区切るという意味がこめられていたのかも知れません。
大谷1号墳に並べられた埴輪は、大部分がまるい筒の形をした円筒埴輪です。またところどころには、口が大きく開く朝顔形埴輪も置かれました。中には、大きく曲がったものやねじれたものも見られます。
これらの埴輪の表面は、木の板でていねいになでつけられ、さらにその上にタガと呼ばれる突起がめぐらされています。
大谷1号墳の築造方法
1:もとの山をけずって大まかな形を整える。
2:けずった土をまず後方部に盛り、後方部の形をほぼ整える。
3:前方部を盛り上げ、全体の形をととのえる。
4:斜面に石をはり、埴輪を並べる。

 

後方部先端側に回って、北西側の隅から。

 

北東側の隅から広角で。

 

後方部西側に墳頂への階段が。

 

テラスから墳丘東側面を。

 

階段の上から振り返った東方向。

 

後方部から前方部。広がる宍道湖、素晴らしい眺め!

検索すると「古曽志遺跡群発掘調査報告書」のpdfをダウンロードできますが、その12頁にある調査時の地図を見ると、元の墳丘も前方部を南東側に向けていたことがわかります。復元された墳丘は長軸前方部側がもう少し南南東気味かも。

 

南西側の宍道湖。兵庫県の五色塚古墳を思い起こしました。

右奥の住宅街が、当古墳がもともとあった場所です(西に200m)

 

パノラマで。

 

前方部上には埋葬施設が。

 

鞍部から振り返った後方部。

 

前方後方墳に特有の鋭角なくびれ部。色の黒い葺石はオリジナルを使っているとのこと。


前方部先端から振り返って。北北西方向で奥に山がありますが、日本海の海岸までは4㎞程です。

 

埋葬施設の解説。

埋葬施設
この埋葬施設は、木でつくった棺の周囲を石で囲んだものです。石組みの小口(短辺)側は大きな石が使ってあり、その内側の壁はほぼ垂直になっています。一方、長辺側の壁は、上に向かってゆるやかに開き、底の土の部分もゆるいU字形をしています。このことから棺は丸木を二つに割って中身を刳り抜いたものだったと考えられます。棺の中には、鉄刀、刀子、斧、矢じりが副葬品として死者と共に納められ、棺の外の石の上には矢が束ねて置かれました。後方部に葬られたはずの王とつながりの深い人物が葬られたのでしょう。
死者の埋葬が終わると、棺の蓋の上にはさらに石がのせられその上に須恵器の壺が供えられました

 

埋葬施設を東側から。

 

参考資料:「出雲の古墳アドベンチャー」