2023年9月の加賀墳行では、主たる目的地・能美(のみ)古墳群を最後に訪ねました。
まずは能美古墳群の北端にあって、群中最大の秋常山(あきつねやま)1号墳へ。
広い駐車場完備。
駐車場内の説明板。
国指定史跡 秋常山古墳群
平成11年(1999)1月14日 国史跡指定
平成23年(2011)3月31日 整備工事竣工
秋常山古墳群は昭和59年(1984)に発見され、平成3年(1991)から測量、発掘調査が行われました。調査の結果、1号墳は全長約140mの前方後円で、石川県最大、北陸でも最大級となることがわかりました。墳丘斜面には手取川の河原石を並べ、東側くびれ部の造り出しからは赤く塗った小形の土師器高坏が出土しています。造られた時期は4世紀後半頃と考えられ、約1600年前、加賀地域の広範囲に影響力をもつ首長が能美の地にいたことを示しています。
2号墳は南北約27m、東西約32.5mの方墳で、墳頂部の四方には埴輪がめぐっていたと推定されます。埋葬施設の発掘調査も行われ、木棺を粘土で覆う「粘土槨」から副葬品として鉄刀・刀子・針・竪櫛・臼玉が出土しました。造られた時期は5世紀半ば頃と考えられます。
秋常山古墳群は加賀地域の古墳時代の解明にとって、欠くことのできない重要な遺跡として、平成11年(1999)、国史跡に指定されました。その後、平成16~22年度にかけて保存整備工事が行われ、史跡公園として保全されています。
図の部分。樹木の位置も示されているようです。
墳丘への標識は埋もれ気味。
左手を見上げると墳丘が(左に前方部、右が後円部)
階段が整備されています。
上がって左側が前方部。左手前に造り出しが復元されています。
後円部斜面の一部には葺石が復元されています。
その解説。
葺石
秋常山1号墳では、上から1・2段目の後円部、前方部斜面に「葺石」と呼ばれる河原石を並べています。葺石によって、墳丘斜面の土流出が防止されるとともに、古墳全体が石で覆われて白く輝く飾りとしての効果もあったと考えられます。
河原石は古墳の北側を流れる手取川から採取したもので、試算すると総数約40万個、総重量約660tの石が運ばれたと推定されます。葺き方にも工夫がみられ、裾には大きな石を置き、斜面には作業範囲を区分するために「区画石」と呼ばれる大型の石を縦に並べています。
加賀地域で葺石を持つ古墳は珍しく、その量からも1号墳築造にかけられた時間と労働力の多さがうかがわれます。なお、1600年前に葺かれた当時の石は保存のために盛土で保護し、目の前に葺石は整備工事で新たに葺いて再現したものです。
振り返った東方向。途中に柵がありますが、向かいの丘上・西山古墳群が見学施設として整備されている様子でした。
秋常山1号墳の葺石は、後円部のさらに一段上の斜面にも。
葺石を右手に見ながら墳頂へ。
広場のような墳頂。
方位が示されていて親切。
後円部についての解説。
後円部
後円部墳頂は、亡き首長を埋葬する最も大事な場所です。秋常山1号墳でも埋葬施設がある後円部最上段は最も高く、葺石も斜面全体に細かく施すなど丁寧な造りとなっています。
1号墳の埋葬施設は、古墳が将来にわたって保全されることから発掘調査は行っておりません。しかし、電気・磁気・レーダーを応用した物理探査によると、埋葬施設は木棺を粘土で覆った「粘土槨」と推定され、両端に鉄製品などが副葬されているようです。
墳頂部に立つと、北は手取川の扇状地から西は日本海、南は小松平野と広い範囲が見渡せます。1号墳に眠る首長も自らが治めた地を亡き後も見守れるように、この場所を選んだのかもしれません。
後円部から北西方向の眺め。観覧車は、手取フィッシュランド・ウルトラマンスタジアム。
西北西側には、秋常山2号墳(方墳)が隣り合います。
南西方向に前方部。
前方部に渡って。
振り返った後円部。
前方部の解説。
前方部
前方部は、後円部への通路や祭祀の場として、あるいは後円部に眠る首長と関わりのあった人物が埋葬される場所として利用されていたようです。
秋常山1号墳の前方部は後世の土地利用によって、もとの形が大きく変わっており、築造当時の姿に復元することが難しくなっていました。よって整備工事では、前方部は現状で復元できる範囲までに留めています。
前方部と後円部が接続する東側には「造出(つくりだし)」と呼ばれる南北10m・東西8m程の広い平坦面をもつ高まりがあったと考えられています。ここから赤く塗った小形の土師器(高坏)がまとまって出土していることから、祭祀の場として利用されていたと考えられます。
前方部先端方向の眺め。
視点を少し右にずらすと、”島”が2つ。
墳丘の左側に降りてパノラマで(左が後円部、右が前方部)
後円部の裾にて。右に前方部。
後円部先端裾あたりで。
そこにあった解説。
秋常山1号墳
秋常山1号墳は全長約140mの前方後円墳です。昭和59年(1984)に発見され、平成5年(1993)から平成19年にかけて発掘調査を行った結果、後円部最大径約110m、高さ約20m、前方部長約45mを測る三段築成の前方後円墳であることがわかりました。その規模は石川県最大、北陸地方においても福井県坂井市六呂瀬山1号墳と並び最大級となります。
墳丘築造にあたっては、ほぼ南北方向に伸びる丘陵尾根を削り出して成形し、丘陵が低い東側を中心に土を盛られています。また、上から1段目と2段目の墳丘斜面には手取川の河原石を利用した「葺石」を施しています。
2段目東側の後円部と前方部が接続する場所には「造出」と呼ばれる平坦な高まりがあったと想定され、赤く塗った小形の土師器(高坏)が出土しています。
築造時期は古墳の形や出土した土器から4世紀後半頃と考えられます。