今回からは昨年10月上旬に訪ねた出雲の古墳・遺跡旅の報告シリーズになります。
ブログのストックのためにと墳行を重ね、旬のうちにと直近からエントリしていった結果、大ネタ(2泊3日)の出雲から1年も経過。
普段、墳行の記憶はブログに記録することで定着していくのですが、一年前のことを写真だけで思い出せるかどうか…
出雲空港から最初に訪ねたのは南に車で25分ほど(中国横断自動車道利用)、雲南市の松本古墳群。
三刀屋木次ICで降りたそば、三屋神社の近くに松本古墳群への入口がありました。
上った先に車を停めて歩きます。
すぐに、前方後方墳の3号墳の後方部が現われます。
前方部の裾を北側から。
後方部へ上がって前方部方向を。
前方部端からその先を。
振り返った後方部側。
南裾に詳しい説明板あり。
3号墳は古墳群最大規模、全長52mの前方後方墳。
松本3号墳
この古墳は、全長52mの前方後方墳で、松本古墳群の中では最も高い場所に造られ、最大の規模を持っている。発掘調査が行われていないため、内部施設などは明らかでないが、墳丘の形から県内最古の古墳のひとつと考えられている。
3号墳は当初約30mの方墳と考えられていたが、1988年に前方後方墳であることが確認され、その後3年間にわたっての測量調査の結果、前方部が低くバチ形に開くタイプであることがあきらかになった。この特徴は日本で最古の古墳とされる奈良県の箸墓古墳と共通しており、注目されることとなった。
葺石や埴輪は測量時の詳細な観察によっても確認できず、1号墳と同様当初より存在しない可能性が高い。なお、後方部上には石塔の一部が4基以上確認されており、後世の墓地として利用されている。
古墳時代初めには、出雲で最大の古墳群(造山古墳群、大成古墳)が安来市荒島地区に造られているが、そこには同時期の前方後方墳が認められていない。斐伊川中流域に造られたこの3号墳は1号墳とともに、古墳時代初期の出雲を語るうえで極めて重要である。
平成12年(2000)3月 島根県教育委員会 三刀屋町教育委員会
後方部の先端を回り込むとその先にもう1基。
1号墳(前方後方墳)の後方部を先端(北)側から見ています。
後方部墳頂に上がって前方部方向を。
前方部先端へ移動して振り返って。
前方部先端(南)側の斜面に、石材と説明板。
これはベンチ?
説明板の前から振り返って。
国指定史跡 松本1号墳
この古墳は長さ50mを測る前方後方墳で、昭和37年(1962)に島根県教育委員会と三刀屋町教育委員会によって発掘調査され、その成果は出雲の古墳時代を語るうえで欠かせないものとなっている。
墳丘には葺石は認められず、埋蔵施設は後方部に長さ約5.2mの箱形木棺、同4.7mの割竹形木棺各1基が、いずれも粘土で密閉された状態で発見されている。箱形木棺から斜縁獣帯鏡1枚、刀子3本・小型剣形鉄製品1本・針7本・ガラス小玉54個が、割竹形木棺から鉄剣1本・碧玉製管玉1個が出土している。これらの特徴から、1号墳は出雲でも最も古い典型的な前期古墳として有名になった。また、墳丘の各所から出土した土器は、山陰の古墳時代のはじまりの時期を考えるうえでの指標となっている。
なお、出土品は県立八雲立つ風土記の丘資料館に保管されている。
昭和38年(1963)7月2日指定
平成12年(2000)3月 島根県教育委員会 三刀屋町教育委員会
1号墳の前方部左裾から、奥が後方部。
そこから斜面下を振り返った先、奥の木立に2号墳がありました。
墳丘の大木。
南側からの2号墳。
説明板も。
松本2号墳
この古墳は緩斜面に造られた円墳で、径15m、高さ3mの規模を持ち、墳丘の北側と東側の周囲には、現状で幅2.5m、深さ0.5mの周溝が認められる。墳丘の上面は径7mの平坦地となっているが、後世に削平されたためと考えられており、本来は現状よりもやや高かったものと推定される。
発掘調査は行われていないため、古墳の詳細については明らかではないが、墳丘の形や立地から、1・3号墳の後に築造されたものと考えられる。出土遺物は不明であるが、土器が出土したと伝えられる。平成12年(2000)3月 島根県教育委員会 三刀屋町教育委員会
南側から見る2号墳。
このあたりから一箇所だけ、平野部が見える場所がありました。高架は中国横断自動車道。
説明板の実測図に方位が記載されていたので、なんとか思い出せました。
2021年10月上旬訪問。