墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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(野中)ボケ山古墳:仁賢天皇陵~野々上古墳 大阪府藤井寺市青山~羽曳野市野々山

羽曳野市立文化情報生活センターで小休憩をとってから、北に200mほどにある、ボケ山古墳(仁賢天皇埴生坂本陵)へ。

 

最初に前方部右裾側の堤の角に出ました。


金網の隙間から。左が前方部先端側で、右奥が後円部。

 

今回も「古市古墳群をあるく」によると、野中ボケ山古墳は墳丘長122m、後円部径65m・高さ11.5m、前方部幅107m・高さ13mと、前方部が後円部に比べて大きい後期古墳の特徴を示し、築造時期は6世紀前半と考えられるとのこと。

二段築成の前方後円墳で、南側くびれ部に造り出しを、周囲には盾形の堀をもちます。

 

前方部先端側は金網沿いに細い通路があり、拝所まで続いていました。

 

回り込んで正面から。

 

「仁賢天皇埴生坂本陵」と記載。

 

玉砂利を進んで柵の手前から。

 

前方部右裾方向。

 

反対側は、堤上に民家が。

 

拝所から振り返ると、斜め右(西)に向かう参道。

 

道路に向かって緩く上りました。

 

道路脇の標柱から振り返って。

 

道路を60mほど北へ行ってから右折した先で前方部右裾に出ました(金網の上から)

 

そこから左(北東)、奥には後円部。

 

今回は後円部付近へは向かいませんでしたが、後でマップを見ていて後円部先端側に古墳の説明板があったと知りました。

羽曳野市のサイトには、墳丘に立っていた埴輪を焼いた窯跡が北側周濠の外縁で発見され、ごく近いところで埴輪を焼いていたことが明らかな例として注目されたとのこと。

ボケ山古墳/羽曳野市

 

住宅街の公園の擁壁に説明板がありました。

野々上埴輪窯跡群
野々上埴輪窯跡群は、昭和56年(1981)に仁賢天皇陵(ボケ山)古墳の北西にある丘陵斜面において灰層が堆積している様子が見られ、その存在が明らかになりました。
発掘では、焼土が3箇所以上観察され、そのうち2基の窯体についての確認調査が実施されました。この2基の窯体は、主軸を南北方向にもち、約4mの間隔で東西に並ぶように検出されました。東側を1号窯、西側を2号窯と呼称しています。開発工事で影響を受ける1号窯のみ、窯体内部を対象とした発掘調査を行いました。
1号窯は、奥壁から残存していた焚口までの長さは6.5mを測ります。2号窯は、平面的な検出状況で長さ約5m、幅1.4mを測り、1号窯に比してやや小規模です。1・2号窯とも、窯体の土層状況や灰原の堆積から、6回以上の埴輪焼成が行われたと推定されています。
1号窯からは、円筒埴輪や朝顔形埴輪をはじめ、石見型埴輪と呼ばれる杖の柄先を模したと考えられる埴輪が出土しました。これらの埴輪はその特徴から6世紀前半のものと考えられます。
野々上埴輪窯群は、隣接する仁賢天皇陵古墳に供給する埴輪を主として焼成していたものと考えられます。
羽曳野市

 

上記から北へ40mほど登って左を見ると、道路沿いに古墳の裾が。

 

宮内庁により仁賢天皇陵(ボケ山古墳)の陪塚に指定されている野々上古墳です。

 

金網の隙間から墳頂を。

 

西側から墳丘を。

前出の「古市古墳群をあるく」によれば一辺20m・高さ2mの方墳とのことですが、かつてこのあたり(古墳北側)で工事が行われた際に、三木精一氏が採集した埴輪は4世紀後半のもので、野中ボケ山古墳とは100年以上の開きがあり、陪塚とは考えられないとのことです。

 

そこから左(北)には、日産パオが並ぶ車置き場。