前回のケゴヤ古墳を見た後は、豊岡市街手前で国道176号を北東へ上がって再び京都府京丹後市の久美浜町へ。
探訪ルートがうまく一筆書きにならず、行ったり来たりになりました。
兜山の東の麓、いかにもかつては久美浜湾の一部であったと感じられる平地。
小島のように見えるところに、塚の鳴(つかのなる)古墳のピンが立っていました。
上記のすぐ左は牛舎。見つめられていました。
”小島”を一周しましたが、入口が見つからず。
2周目で、案内板を見つけました。
上がった先に開口部。
「鳴」が「ナル」の説明板。
甲山塚(こうやまつか)のナル古墳
6世紀中頃(古墳終期)に造られた当町におけるもっとも大きい横穴式石室墳の一つです。
この古墳は両袖式石室と羨道とに分かれています。石室部に葬者を安置し、羨道部の入口は石で蓋がされてありました。付近に散乱している石はこの古墳に使用されていたもので、主に兜山山麓海辺の石が用いられたと思われます。
元禄年間の頃付近の新田開拓の作業に際し発見されたもようで一番大きな石は後久美浜代官陣屋の庭石に運びだされたとも伝えられています。
古墳内外の供養塔は後世村人が之を祀ったものです。
昭和55年3月 久美浜町教育委員会 久美浜町文化財保護委員会
ちょっとかがめば入れる開口部。
途中で天井石が抜けていました。
奥壁前に石仏に参拝。
奥壁前から振り返って。ぽっかり空いた天井。
立派な袖石をフラッシュで。
よく見ると、入口側の天井石を支える一方が、この一点。
静かにそおっと外に戻りました。
石室前の斜面にあった石材。
検索すると、下記のサイトに「京丹後市の考古資料」からの解説が示されていました。それによると、塚の鳴古墳は玄室長4.8~5.1m・幅2.5~2.7m・高さ2.8m、羨道幅1.3~1.9m。元禄三年銘のある石造聖観世音菩薩像のほか地蔵尊と大師像があり、17世紀後葉には開口し信仰の対象となっていたことがうかがえるそうです。
岩ヶ鼻古墳とともに川上谷川河口の内海に面していて、蓮池を痕跡とする内海を基盤とする有力者の墓といえるとのこと。
岩ヶ鼻古墳は700mほど南にあるのですが、ここも下調べ不足でスルーしてしまいました…