今回も高安千塚古墳群。写真多めです。
前回のゴロゴロした石置き場のすぐ南の突き当り。
植木の陰に石に刻まれた解説。
高安古墳群
付近一帯に群集する古墳は6世紀後半を中心に築かれた古墳時代後期の横穴式石室墳である。
遺体を安置する奥の玄室部とこれに通ずる羨道部とからなっている。
巨石を組んで石室を設け土を盛り上げた円墳でほとんどのものが入口を南に開いている。
総数約200基を数えるこの古墳群は比較的古い時代の群集墳として著名である。
八尾市教育委員会
そのすぐ東の道路脇に、古墳群のひとつの服部川7号墳がありました。
道路に向かて開口。
下記の本(43頁)によれば、服部川7号墳は径22mの円墳で、高安千塚古墳群最大の右片袖式石室。玄室は長さ4.6m・幅2.9m・床面積13.34㎡。
明治12年にE.S.モースが内部をスケッチしたと推定されているそうです。
室内高もある立派な石室です。
フラッシュで。「+」の印は計測用でしょうか。
天井石を。
奥壁を背にして。
そこから斜面上の二室塚古墳を目指しましたが、途中の墓地内にはグーグルマップにはピンが立たない石室がいくつかありました。
周りをコンクリートブロックで保護された1基。
中へ入らせていただきます。
奥壁は抜けていました。
奥壁側を背にして。
墳丘を南東側から。
さきほどの石室を、奥壁に開いた穴から。
そばに置かれたいた大きな板石は、石室の一部だったのでしょうか。
こちらはその上側にある1基。
石も、木も立派です。
スマホ広角で。
奥壁に向かって左側壁。
右側壁。
奥壁を背にして。
同じ位置から広角で。
さらに上がったところに、二室塚古墳。
非常に残念ながら入室禁止でした。
詳しい説明板。あのウィリアム・ガウランドも入室した石室です。
八尾市指定史跡
高安古墳群 二室塚古墳石室
二室塚古墳は、300基近い古墳からなる高安千塚古墳群の服部川に所在する、6世紀後半頃に造られた横穴式石室墳です。石室の構造は、右片袖式の玄室を2つ連結したもので、全国的にも類例がないものです。複数の石室を有する複室構造といわれる石室は、九州を中心に分布していますが、二室塚古墳の石室はこれと異なり、畿内で典型的にみられる片袖式石室を連結した構造で、このような石室は、同じ高安古墳群の郡川にある交互二室塚古墳(右片袖式に左片袖式の石室を連結)にしかありません。
二室塚古墳の石室は、当時の政権の中心であった畿内において、独自の複室構造として造られたものであり、畿内の横穴式石室を考える上で大変貴重なものです。
また二室塚古墳は、日本近代考古学の草創期である明治時代に「日本考古学の父」といわれる英国人ウィリアム・ガウランドが、米国人ロマイン・ヒッチコックとともに、ガラス乾板による写真撮影を行い、「双室ドルメン」として、いち早く海外に紹介した古墳として貴重な学史を有する古墳です。
ガウランドは、大阪造幣寮(現在の造幣局)の技術指導のため、わが国に招かれたお雇い外国人でした。彼は、日本各地の古墳の調査研究を行い、その業績は古墳の科学的研究の基礎を築いたものであり、「日本考古学の父」といわれています。ヒッチコックもまたお雇い外国人である、卓越した写真技術を持ち、日本の古代研究等にも大きな業績を残しています。
彼らは、明治20~21年(1887~88)に、高安古墳群に訪れたと考えられており、その写真には、当時の二室塚古墳石室の姿が明瞭に残されています。
平成19年3月 八尾市教育委員会
開口部から。手前も奥も、どちらも玄室で、2部屋あるので二室塚古墳。
ズームして。
手前側玄室の左側壁。
右側壁。
見応えのある石積みでした。
見終えて戻ろうとして目に入った別の1基。
巨大な天井石が露出しています。
一段下に降りると開口部。
ここも大きな石室です。
奥壁を背にして。
奥壁を背にした左側。
頑張っている石がありましたが、もし割れたら全体に影響しそうな予感もありました。
墓地の北端斜面にも別の石室開口部がありましたが、遠望のみで。
墓地の北側、道路を隔てた向こう側にも開口部が見えていました。
西側には大阪平野が広がっていました。