墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

画像が出ない場合はPCで、クロームOSでお試しください。

綾塚古墳 福岡県京都郡みやこ町勝山黒田字綾塚

国史跡・綾塚(あやづか)古墳は、前回の橘塚古墳から500mほど西の立地。

 

道路沿いに広い駐車場が整備されています。

 

ズームすると開口部も写りました。ビニールハウスの上、赤茶の草で覆われているのが墳丘です。

 

駐車場にある解説板。

綾塚古墳
綾塚古墳は、7世紀前半頃につくられた直径約40mの円墳です。花崗岩の巨石を積み上げて構築された石室は全長約19mを測り、当時の天皇や皇族の陵墓とみられている古墳の石室と同じ規模であることから、国内でも稀にみる横穴式石室として知られています。玄室には、京築地域で唯一の家形石棺が安置されています。石棺は、みやこ町やその近辺では採取できない「デイサイト質凝灰岩」という加工に適した石材が用いられており、蓋には6カ所に縄を掛けるための突起が削り出されています。
また17世紀のはじめ頃、初代小倉藩主、細川忠興の家臣がこの石棺を割り、小倉に運ぼうとしてところ、数々の災害た起きたため元に戻したと伝えられています。これ以降、石棺は信仰の対象となり、現在まで地域の人々により大切に守られてきました。
みやこ町教育委員会

 

実測図部分。

 

裏にも解説がありました(帰路で気づく)

綾塚古墳の調査・研究
綾塚古墳は古くから石室が開口していたこともあり、様々な人びとがこの古墳を調査し、記録を残して居ます。黒田藩の儒学者、貝原益軒が元禄7年(1694)5月16日にこの古墳を訪れ、石室奥壁の大きさに驚いた様子が「豊国紀行」に記されています。
また明治政府に冶金技師として招聘sれたイギリス人のウィリアム・ガウランドが、日本にみられる複室構造の横穴式石室の代表例として調査を行いました。1897年にイギリスで発表された論文「The Domens and Burial Mounds in Japan」(日本のドルメンと埋葬墳)の中では橘塚古墳や綾塚古墳北側丘陵に分布する多くの群集墳についても触れ「古墳時代にこの黒田地区が大変重要な場所であったことは明らかである」との見解を示しています。
大正13年(1924)秋にはアメリカ、シカゴ大学のフレデリック・スタール博士が来日・調査して、「世界的に重要なる歴史の参考資料である」と述べ、その石室の大きさに驚いたことが地元に伝えられるなど、100年以上前から外国人によって、その歴史的価値が評価された古墳としても注目されます。
みやこ町教育委員会

 

ガウランドが描いた実測図。これは美術的価値も高いですね。

 

墳丘の前に鳥居。

 

扁額は「女帝神社」

 

鳥居のそばの説明板。

国指定史跡 綾塚古墳
この古墳は、約500m東にある橘塚古墳に続く7世紀初頭に築造された北部九州を代表する巨石墳です。
墳丘は、丘陵の先端部でU字に濠を掘削し、その土を盛り上げて築いた直径約40mの円墳です。
石室は全長19mを測る横穴式石室で、複室構造としては国内最大規模です。特に玄室奥壁の石材は巨大で、元禄7年(1694)にこの古墳を訪れた黒田藩の儒学者貝原益軒も、その大きさに驚いたことが「豊国紀行」に記されています。
玄室には、京築地方で唯一の家形石棺が安置され、蓋・棺身とも、みやこ町とその近隣では確認できないデイサイト質凝灰岩で作られています。
慶長年間に細川忠興の家臣数人が石棺を割り、小倉に運ぼうとしたところ、数々の災害が起きたため元に戻したという記録が付近の集落に残されています。また明治初期には、イギリス人の造幣技師のウィリム・ガウランドが詳細な石室実測図を作成しています。その実測図は現在大英博物館に保存されています。
みやこ町教育委員会

 

大きな開口部に呼ばれます。

 

右の柱は後補ですね。

 

柱に守られて入室。両手を挙げたままで入れます。

 

羨道は途中から少し天井が下がります。

 

袖石の先の前室に祭壇が。

 

柵の向こうに玄室。

 

柵の隙間から玄室を。

 

奥壁の前に”割れれた”石棺。

 

玄室は側壁も大きな一枚岩。


柵越しですが、圧倒されました。

 

祭壇から開口部を振り返って。

 

前室左右の側壁も巨石ですが2段積み。




羨道左右の側壁は3段。

 

開口部からの眺め。

 

墳丘の様子。

 

駐車場近くの道路から、橘塚古墳の木立が見えました。

 

ズームして(中央奥)

2023年9月上旬訪問