墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

画像が出ない場合はPCで、クロームOSでお試しください。

高坂古墳群:1号墳(加賀爪家墓所) 埼玉県東松山市高坂

東上線の高坂周辺は、北辺に都幾川・南辺に越辺川が流れて東で合流する舌状台地になっており、台地縁に沿うようにして古墳が点在する。

 

前回の諏訪山古墳群から時計回りに歩いてきて、高坂古墳群に差し掛かかりました。

 

高塚1号墳のピンが立つところに近づくと大きな土盛りが出現してびっくり。

f:id:massneko:20210420101454p:plain

 

思わずパノラマで。

f:id:massneko:20210420101506p:plain

 

大きな前方後円墳⁉

f:id:massneko:20210420101522p:plain

 

と思いきや、一部に古墳が載った土塁でした(貴重な遺構に変わりないですが)

f:id:massneko:20210420101538p:plain

埼玉県選定重要史跡 高坂館跡
高坂館跡は高坂氏の居館として南北朝時代に造られました。近年の発掘調査で、現在地の南にある高坂二番町遺跡(現・子育て支援センターマーレ周辺)から、高坂氏が活躍した時期(14世紀前半)のかわらけや輸入陶磁器が出土し、当時の館の中心はもっと南にあった可能性があります。
現存する土塁や堀は「鎌倉大日記」に伊勢宗瑞(北条早雲・明応の政変に際し明応3年(1494)に在陣)が、「正法寺文書」に北条氏康(松山城攻めに際し永禄5年(1562)に在陣)がそれぞれ在陣したとの記述があることや、発掘調査で土塁や堀を改修した痕跡が見つかったことから、戦国期に整備されたものと推定されます。
館というよりも「城」のような規模になっていった「高坂館跡」は戦国期の激しい動乱を今に伝える貴重な遺跡です。
【館の規模 南北230m・東西170m 土塁頂部と堀底の比高差8m】
平成31年3月 東松山市教育委員会 

 

説明板の写真部分。 

f:id:massneko:20210420101549p:plain

 

墓地の方に回ると土盛り上の説明板が見えました。

f:id:massneko:20210420101601p:plain

 

説明板には「加賀爪(かがつめ)氏累代の墓」とありました。

加賀爪氏は徳川家康に仕え、長久手・小田原攻め・関ケ原・大阪の役で戦功を上げ、一万石を領していたものの、元和元年(1681)に領地問題を起こして領地没収となってしまったそうです。

f:id:massneko:20210420101623p:plain

 

現地には古墳のこの字の情報もなく…

 

ぺんさんのサイトからの孫引きですが、伝承によって前方後円墳と推定されているそうですが、前方部が土塁に取り込まれたのか否かは明らかではないようです。

高坂1号墳【埼玉県東松山市】 - ぺんの古墳探訪記

 

土塁に上がって最高地点(墳頂)を。

f:id:massneko:20210420101657p:plain

 

ぺんさんやふっき~さん、あんけんさんが訪ねられたときは、墳丘付近は林の中だったのですね。

埼玉県東松山市 高坂古墳群 高坂1号墳(高済寺) | 古墳探訪記

東松山市高坂古墳群(その1) | 趣味の案件

 

墳頂からその先(北東方向)を。

斜面下には「都幾川リバーサイドパーク」、その先に都幾川が流れていますが、川向う1.5㎞には野本将軍塚古墳が存在します。

f:id:massneko:20210420101735p:plain

 

墳頂から土塁の先までは70mくらい。 

f:id:massneko:20210420101755p:plain

 

土塁(墓地)があるのは高済寺。八重桜が満開でした。

f:id:massneko:20210420101830p:plain