墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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恵解山古墳 京都府長岡京市勝竜寺

大山崎山荘を見学した後は北東に3㎞、長岡京市にある国史跡・恵解山(いげのやま)古墳を訪ねた。

 

墳丘北側から西側にかけて二車線の道路が巡るが、車を停めるには少し離れた勝流寺城公園や西山天王山駅などの有料駐車場を利用することになる。

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墳丘北側からは、周溝に設けられたテニスコートの間の道を入る。

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上記の左側。

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その先の後円部は墓地になっていて関係者以外は立ち入り禁止。

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後円部のカーブに沿って園路を進む。 

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右手がくびれ部、その先に前方部。目の前の緑の部分が東側造り出しを現わしているようだった。 

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その、東造り出しの解説。

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東造り出し
東造り出しは、東西約14.5m、南北約17.5mの広さがあります。西造り出しとは異なり、大きく不整形な姿をし、周りの緩やかな斜面には、小石を敷いて州浜のようになっています。その上端には、人頭大の石が並べてあります。また、南西隅には南に延びる張り出しがあり、東斜面から水鳥形埴輪が出土しました。水辺に佇む水鳥を表現したのでしょう。
ここでは、小石に覆われていた範囲を芝で覆い、石列は、飛び石で表現しています。

 

造り出しの東側、堀の向こうには長岡京市立長岡第8小学校。ちなみにそのすぐ北には道路を挟んで長岡京市立長岡第3中学校がある。小学校校庭からの先生の声が明瞭に通っていた。

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前方部斜面を一段上がったテラスには、埴輪列が見事に復元されていた。

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その説明。

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埴輪列
ここは東くびれ部で、第1平坦部に並べられた埴輪が、長さ約12mにわたって見つかったところです。後円部を巡る埴輪列が、前方部へと、緩やかな曲線を描いて続いていました。これらは円筒埴輪と呼ばれる土管状の埴輪です。その多くは、土中に埋めていた底部が残っているだけでした。並べられていた埴輪が、心々で約40㎝間隔に立てられている状況から、恵解山古墳全体で約1800本以上の埴輪が使われたと推定できます。 

 

前方部にあがって先端側を望む。

中心軸は南東方向を向いている。 

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前方部上に古墳の立地についての解説があった。この墳丘には、山崎の合戦で明智光秀の陣が敷かれたようだ。

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交通と恵解山古墳・山崎合戦
交通と恵解山古墳
恵解山古墳は、西側から続く標高約16mの低い台地の縁に築かれています。この古墳より東には、桂川右岸に広がる平野があり、南に緩やかに下りながら幅を狭めています。この場所は、桂川、木津川、宇治川の三つの川が合流して淀川となる地点にも、近い位置です。京都から大阪平野に流れ込むこれらの川は、古代の水上交通上重要であり、この重要地点を押さえていた自らの権力の強さを、往来する人たちに知らしめ、見せつけていたことでしょう。
山崎合戦と恵解山古墳
織田信長が明智光秀に倒された本能寺の変の直後、羽柴(豊臣)秀吉と光秀が激突した山﨑合戦は、あまりにも有名ですが、恵解山古墳も、この戦いの舞台ともなった可能性があります。
発掘調査で、当時の土器片とともに火縄銃の鉛弾が出土しています。また、後円部にある現在の墓地が棚田状に3段になっていることや、前方部に大きな掘り込みがあることも、光秀方が恵解山古墳に陣を置いた際の造作である可能性があります。

 

下に降りて、南東側から見上げた前方部先端側。 

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そこに置かれた立体模型。前方部と後円部どちらも3段築成。稜線は後円部の方が3m弱高い。

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恵解山古墳の形状と特徴
恵解山古墳は、乙訓地域最大の前方後円墳で、前方部は南東を向いています。規模は、全長約128m、後円部径約78.6m、後円部の高さ約10.4m、前方部幅約78.6m、前方部先端の高さ約7.6mに復元できます。墳丘は3段に築かれ、くびれ部に近い前方部の東西には、大きさや形の違う造り出しがあります。墳丘の周囲には、幅約30mの広く浅い堀(周濠)が巡っています。古墳の形や造り出しのまつりなどは、当時の大王墓にならったもので、王権とのつながりの強さがうかがえます。

 

こちらは地形と古墳との関係を教えてくれる立体模型。赤い文字の場所が恵解山古墳。

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乙訓の古墳群を恵解山古墳
淀川の支流、桂川の西側にある乙訓地域(山城南西部)には、前方後円(方)墳を中心とする地域支配者(首長)の墓が数多く築かれました。古墳時代前期には、向日(むこう)丘陵に古墳が築かれますが、中期に途絶え、かわって長岡京市域で大きな前方後円墳が造られ始めます。その時に登場したのが地域最大規模を誇る恵解山古墳です。これは、中央集権の墓域が奈良から大阪へ移動してことに関係する政治的再編を伝えるものと考えられています。

 

パノラマで。 f:id:massneko:20201018210347p:plain

 

そのすぐ後ろの道路際にあった解説。

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史跡 恵解山古墳の概要
恵解山古墳は、古墳時代中期(4世紀末~5世紀後半)に築造された全長約128mの乙訓地域最大の前方後円墳です。桂川右岸の標高約16mの台地の縁に造られています。周囲には、幅約30mの周濠があり、周濠を含めた古墳の全長や約180mに達します。古墳は3段に築かれ、斜面には砂岩やチャートの河原石がふかれ、各段と頂部平坦面には埴輪が並べられていました。後円部には、死者を埋葬した竪穴式石室があったとみられます。前方部の中央には刀剣などの鉄製武器が約700点納めてあり、京都府で他に例がなく、全国的にも珍しいものです。恵解山古墳は、その規模や構造から5世紀前半頃に桂川右岸の乙訓地域全域を治めた支配者の墓と考えられます。

 

前方部左裾側から望む墳丘。

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前方部先端側の斜面。

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再び前方部墳丘へ。階段の左斜面の葺石は実際に使われていた石材で再現されている、との解説が階段下にあったが撮りそびれてしまった。

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前方部先端から後円部方向。

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この、くびれ部に近い前方部には武器が埋納されていた。

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武器埋納施設
ここには、多量の鉄製武器類が木の箱状の入れ物に納められていました。その大きさは、長さ6.5m以上、幅約80㎝です。箱の底には刀が、その上に剣と槍が、さらにその上に短刀と大量の矢が束ねられて整然と置かれていました。約700点もの鉄製品は、葬られた人の権力の高さを物語っています。
このほか、前方部斜面の崩れた土の中から、鉄製品が多く出土しています。刀や剣、鏃などの武器も含まれていますが、鉄製の斧、鎌、鍬先などの農工具類が多く、斧をかたどった石製品もあります。武器類埋納施設とは別の、農工具類を中心とした埋納施設があったと思われます。

 

前方部から後円部左側面。 

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長岡京市埋蔵文化財センターのサイトにて、前方部の発掘調査の様子を見ることができる。

恵解山古墳の前方部 | 長岡京市埋蔵文化財センター

 

墳丘西側のベンチがあるところにも解説板の位置を示す解説があった。

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史跡 恵解山古墳
史跡の名称:恵解山古墳
史跡指定日:昭和56年(1981)10月13日
史跡指定理由:昭和55年(1980)に鉄製武器類約700点余りを埋納する施設が発見され、乙訓地域最大の古墳でもあり、中央政権と強いつながりのある桂川右岸地域の統率者の墓と察せられる貴重な古墳である。
墳形:前方後円墳
古墳の規模:全長約128m、後円部径約78.6m、後円部高推定10.4m、前方部幅約78.6m、前方部先端高推定7.6m
古墳構築時期:古墳時代中期(5世紀前半)
史跡指定範囲:19,495.995㎡
墳丘構築面標高:約16m
経緯度:北緯34度54分52秒、東経135度41分52秒
整備実施期間:平成23年度~平成26年

 

前方部先端側にあったものと同じ解説文も。

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墳丘の西側造り出しには埴輪も再現されていた。 

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西造り出し
ここは、前方部西側に取りつく、東西約8.5m、南北約12mの四角い施設で、特別な葬儀が行われた場所とみられています。造り出し上面は、埴輪で囲われていました。その東辺の埴輪列は、北よりで食い違って、そこから中へ入る仕組みになっていました。造り出しの取りつき部分には、そこを島に見立てた入江状の表現があり、当時の死生観を知るうえで興味深いものです。

 

造り出しの近くから見た後円部斜面、その裾の解説。

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後円部
後円部は、直径約78.6m、高さは約10.4mと推定しています。頂部は、早くに大きく削られて、江戸時代から墓地として利用されてきました。墳頂部の中央には、周辺から出土した板状の石材から、死者を葬るための竪穴式石室があったと考えられます。
ここでは、後円部裾の葺石が検出されました。斜面に他より一回り大きい基底石が前方部裾にあり、後円部にないことが注目されます。西くびれ部最上段斜面の葺石の様子は、最下段斜面に復元的に再現しています。

 

前出の埋蔵文化財センターのサイトには後円部の発掘調査写真も載っている。

恵解山古墳の後円部 | 長岡京市埋蔵文化財センター

 

後円部の堀と、一段目、二段目。

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左から一段目、二段目、三段目。

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堤をかすめてJR京都線、新快速が通っていた。

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