小熊山古墳は前回の御塔山古墳のすぐ北の立地。
住宅地のそばの坂を上がったところが墳丘だった。
墓地の脇のスペース。何かの基礎の先に説明板が。
小熊山古墳は全長116.5mの前方後円墳だった。
国指定史跡 小熊山古墳について
(平成29年2月9日に国の史跡に指定されました)
基本データ
古墳の形:前方後円墳(後円部3段、前方部2段もしくは3段)
古墳の大きさ:116.5m
外表:葺石と埴輪がある。
特徴:古墳の大きさは豊後最大。並べてある円筒埴輪は九州最古級。
説明板の実測図。現在地は後円部左上。
ここも出土品の解説があった。
小熊山古墳出土品
左から…・出土した円筒埴輪(最古級の円筒埴輪以外は口の部分が屈曲しません)
・出土した珍しい鰭付半裁楕円筒埴輪
・出土した壺形の埴輪
当時の最先端の祭式が九州で最初に小熊山古墳に伝わりました。・出土した埴輪の復元図
右下の写真
埴輪は古墳にこんな感じで並べられました。ここは大分市の亀塚古墳です。
説明板の向こうに後円部。
後円部裾を回って登り路がないか探す。
後円部墳頂の一歩手前。
墳頂の様子。木々が無ければ向こうは海。
後円部から前方部方向。
左手に木々の切れ目がないか探しながら前方部へ向かう。
倒れたばかりの大木があった。
くびれ部から後円部を。
そこから左側の墓地を。実測図を見ると、このあたり墳丘が削られているようだ。
前方部には腿丈ぐらいの”草原”が。セイタカアワダチソウでしょうか。
前方部の端あたりにあった大木。
そこから振り返った後円部方向。120m近くの長さは雄大。
前方部先端から、別府湾を望むことができた。
古代の人も見た雰囲気か。
前方部端から右。右裾は歩けるルートは無かった。
左裾を後円部へ。横から見た鞍部。
後円部から前方部側を。中央が墓地側から抉られた部分。
小熊山古墳・御塔山古墳については、大分県立埋蔵文化財センターで、わかりやすいパンフレットをいただいていた。
そこにあった解説文。
・小熊山古墳、御塔山古墳の歴史的重要性は?
~なぜ、巨大な古墳が杵築市狩宿にあるのか?~
小熊山古墳・御塔山古墳の頃(3世紀後半~5世紀前半)の九州東部の主要古墳の分布小熊山古墳と御塔山古墳は海を強く意識した古墳です。
小熊山古墳の上に立って南を見ると大分市が見えます。さらに天気が良いときは別府の奥の久住の山々が、東を向けた愛媛県が、北東を向けば山口県が見えます。
今から1750年前~1350年前は、道路もそんなに発達していませんし、車も、ましてや飛行機もありません。海を船で行き来することが、重要な交通手段でした。
上の図を見てみると、杵築市は、近畿などの東側へ向かう瀬戸内海と九州との窓口のような位置にあることが分かります。その中で別府湾の入口で海上の交通をにらむような場所に、小熊山古墳・御塔山古墳はあります。
この小熊山古墳・御塔山古墳を造った人は、海を通して、当時の中心である近畿と密接に交流していたことが、古墳の大きさや出てきた埴輪からわかります。また、九州の内陸の久住などをも見渡せることから陸上交通をも重視した古墳であることが分かります。
それらの重要性が認められて平成29年2月9日に国指定史跡となったのです。
海上など、さまざまな角度から墳丘方向を写した写真があって素晴らしいです。
杵築市のサイトによれば、小熊山古墳の築造時期は古墳時代前期前半(3世紀後半~4世紀初頭)
https://www.city.kitsuki.lg.jp/kanko_rekishi/rekishi_bunka_bunkazai/12/3468.html
海上交通路を見渡す位置に、大きな円墳と前方後円墳が近くに造られているのは、大洗の磯浜古墳群と似ている印象を受けました。
車塚古墳(径88mの円墳、4世紀代)
日下ヶ塚古墳(全長103mの前方後円墳、4世紀後半)