勝堂古墳群見学後は、北西5㎞の神郷亀塚古墳へ行くつもりだったが、少し時間があったので南東に5㎞の百済寺(ひゃくさいじ)も参拝した。
依智秦氏の里古墳公園(金剛野古墳群)からだと3kmほどの距離。
お寺の由緒を見ると、秦氏、そして聖徳太子を通じて、祖先を祀る場が古墳から寺院へと移って行ったことが想像された。
近江最古の仏教寺院で、創建は飛鳥時代の推古14年(606)
聖徳太子の勅願によって開かれ、創建当時は日本に仏教を伝来した渡来僧や先進的な文化、技術を伝えた渡来系氏族の氏寺として発達したとのこと。
平安期に天台宗となり、戦国時代には信長の焼討にもあったが江戸期に再興している。
http://www.hyakusaiji.jp/about/
寺の駐車場までは比高差100mほどの登り道。途中に一本、きれいな紅葉があった。
拝観料600円を納めて境内へ。
本坊の後ろには池泉廻遊式の庭園。
庭園背後の斜面を少し登ると展望が開けた。正面が庭園、その先に広がる湖東平野。
住職による説明板も。
天下遠望の名園
釈迦山百済寺(ひゃくさいじ)は近江最古のお寺です。
今から1400年あまり昔の推古14年(606)に、百済博士恵慈(高句麗僧)の案内でこの地を訪れた聖徳太子さまは「近江の地理的重要性」を逸速く見抜かれて、すでに先進技術と文化で湖東平野を開拓しつつあった渡来人のための百済寺を創建されたと伝えられております。
(後略)
眺めがよい立地は、戦乱に巻き込まれる。
戦国歴史ロマンの大舞台
聖徳太子さまが見抜かれた「近江の地理的重要性」が、皮肉にも中世の戦国時代には百済寺が三度の戦乱に巻き込まれるという悲しい運命を辿る結果となりました。
湖北地方から湖東地方へ南下してきた近江源氏佐々木六角氏は、自主防衛のための観音正寺と百済寺を石垣で「城塞化」するとともに鯰江城などの出城を築いてゆきました。
とりわけ信長による百済寺焼討は悲惨を極めました。「信長公記」によると信玄の死を知った信長は六角征伐のため近江へ軍を進め天正元年4月7日には百済寺城に入城し鯰江城の総攻撃を開始しました。
寺側は織田か六角かの苦渋の選択の末、長年の恩義を重んじ鯰江城に食料米を送るとともにその婦女子を境内の三百坊に保護しました。信長はこの行為は一揆・謀反であると称し11日に百済寺焼討が断行され半月間ほど燃え続けたとのことです。
宣教師ルイス・フロイスの書簡にも「Facusangi(百済寺)と称する大学には、多数の相互に独立した僧院や座敷と庭園・築山を備えた僧房が立ち並びまさに地上の楽園が…」と惜しまれる様子が記録されております。
信長にとっては、百済寺焼討による3つの利点がありました。
1、手っ取り早く六角を近江から追い出せる。
2、田畑の没収で米即ち兵力を増強できる。
3、三百坊の石垣抜くことで六角の再起を防げる。
このような状況下で、安土城構想はこの地で着想され、三百坊の石垣や石仏を安土まで運び出したと言われております。この光景の一端は、寺所蔵の「石曳の図絵馬」に描かれております。このようにして近江湖東文化の一大中心地が壊滅しましたが、往時の姿は三本の参道の左右に千枚田のように広がる数々の「平らな坊跡地」や引き抜かれた「石垣の段差跡」、広大な「旧本堂跡地」と「五重塔礎石」、再び蘇った「千年菩提樹」などから偲ぶことができます。
なお、百済寺城は「山城」の最後の形、安土城は「平城」の最初の形を言われております。
一大パノラマの下、「近江を制する者は天下(都)を制す」の諺通りの歴史舞台と栄枯盛衰の歴史ロマンを味わって頂ければ幸いです。
百済寺 住職 謹書
園路は本堂へ登る参道へ続いていた。
まだ緑が鮮やかな境内林。
石段の参道。本堂までの比高差は100mほど。
途中に、大きな草鞋が懸かる仁王門。
門から振り返って。
迫力の仁王像。
さらに登ると本堂が。
なかなか大きな杉の幹。
本堂は海抜350mに立地。(琵琶湖面は85m)
江戸期の慶安3年(1659)の竣工で国重要文化財。
11月上旬は、紅葉には少し早かった。
正面中央に軒唐破風が付いた入母屋造。
堂内で、秘仏以外の仏様を拝ませていただいた。
http://www.hyakusaiji.jp/treasure/
鐘も撞くことができる。
赤く色づけば、さぞかし美しいでしょう。
作務所では「百済寺樽」の販売が行われていた。
前日のツアーで学芸員の方が勧められていて、気になっていました。
一升瓶を購入。非常に美味しかったです。
実は手に入りにくいお酒だったようです。米作りから参加する「オーナー」になるという手もありますが。
https://www.hyakusaijitaru.com/2018
門前の小学校前での飛び出し坊や。