勝堂(しょうどう)古墳群シリーズの最後は、南東端の2つの古墳。
田んぼの中の小公園で隣り合う。
左が赤塚古墳、右に切れている木立が弁天塚古墳。
道は赤塚古墳の裾に沿ってカーブ。
この道が勝堂町の境界でもあった。向こうは一色町。
南側に廻って墳丘を見る。草むらの中に石室開口部が。
ズームで。
腰丈ほどの草に覆われている。
回ってみたが踏み跡もなく。
入室は断念。
墳頂も断念。
下記の東近江市の資料によると、赤塚古墳は直径約32m・高さ約5.2mの円墳。
横穴式石室は両袖式で玄室長約4m・幅約2m・高さ1.6m以上、羨道長2.4m以上・幅約0.9m。墳丘の形状などから6世紀後半頃の築造と考えられるとある。
https://www.city.higashiomi.shiga.jp/cmsfiles/contents/0000007/7936/okarayamakofun.pdf
OBITOさんと平家蟹さんのサイトには、石室に入られての写真が掲載されています。
http://obito1.web.fc2.com/kotouhatasyou.html
https://kofunoheya.blog.fc2.com/blog-entry-1367.html
赤塚古墳の北西40mには弁天塚古墳。2基とも古墳公園内にある。
愛情が感じられる竹製の手すり。
墳頂の祠(弁天様か)に参拝。
墳頂から、樹林の隙間の眺め。
降りて墳丘を一周。
滋賀県文化財保護協会のサイトによれば、弁天塚古墳は直径20m・残存高4.3mの円墳。墳丘は径32mの赤塚古墳より小さいものの、幅11m程の周濠とその外縁に残存高0.7m・幅5m程の周堤帯を持つ。
こちらの解説での赤塚古墳の築造年代は、石室の構成が石舞台古墳に類似するなどの点から7世紀前半に、また弁天塚古墳は周堤帯で墳丘規模を大きく見せる手法がとられているなどの点から大化の薄葬令(645年)以降に築造されたと推測されるとあった。
勝堂古墳群の5基は発掘調査は行われていないが、墳丘周りや石室の様子から築造時期は山上塚(朝日塚)→行者塚→おから山→赤塚→弁天塚の順で、6世紀後半から7世紀中頃まで順次構築されたと考えられ、終末期古墳としては県内有数の規模をもつ弁天塚古墳の被葬者は白村江の戦いで活躍した朴市秦造田来津(えちのはたのみやつこたくつ)の可能性もあるそうだ。
周溝内の気になる石材。
東近江市のサイトによれば、弁天塚古墳の内部主体の構造は未調査のため不明とあり、築造年代はこちらでは、墳丘の形状などから6世紀後半頃とされていた。
一周して、弁天塚古墳(右)の脇から見る赤塚古墳(中央)