墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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太子古墳 茨城県かすみがうら市安食

太子(たいし)古墳は風返古墳群から南東に3kmほど、やはり台地縁辺にあった。さらに南東に1㎞進むと富士見塚古墳がある。

 

ほぼ一車線の道を進んでいくと、分岐のところに「太子古墳」の立て札があった。

 

矢印の方向の風景。

 

二本目の電柱の先に、道に向かって開口部があった。

 

立派な説明板。

県指定史跡 太子古墳
(昭和52年5月2日指定)
この太子古墳は、かつては全長約60mの前方後円墳であったが、現在は後円部の横穴式石室が開口しているのみで、土地の人々は「太子のカロウド」と呼んでいる。明治23年に発見され、大正年間、大野延太郎(雲外)氏によって、玄室左右の壁面に朱の丸紋が多数描かれている装飾古墳として発表され、茨城県南部ではまれなる貴重な古墳として注目を集めた。
横穴式石室は羨道・玄室をあわせて奥行3.86m、奥壁の幅1.30m、玄室の高さ1.35m。石材は雲母片岩である。石室内部からは二遺体分の人骨と銀環、直刀、刀子、須恵器等が出土した。時期は古墳時代後期である。
かすみがうら市教育委員会。

 

 その先に続く生垣。全長60mの前方後円墳であった面影はない。

 

一段降りたところに開口部。植込みの一部のような雰囲気で。

 

 

 

茨城県教育委員会のサイトによれば、石室全長3.8m、羨道部の長さ1.5m、玄室長2.3m、奥壁高さ1.37mで、古墳時代後期の築造。

https://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/bunkazai/ken/shiseki/12-51/12-51.html

 

フラッシュで。奥壁や側面の表面は四角く平滑に加工されていた。

現地説明板にも触れられているが前出のサイトには、現在はほとんど消滅しているが、左側壁に赤い色彩による円文(えんもん)が5段くらいに配列されていた、とある。

 

その説明文を見事に見逃して、右側面の壁の一部を撮っていた(しかもピントが…)

 

右側面と奥壁の角の部分。高さが1.4mほどなので、しゃがんで撮影。

 

屍床部分。奥壁に並行して2列の仕切り石が立てられている。

 

フラッシュで。

 

かすみがうら市のサイトには、 「現在は彩色の一部を確認することができるだけで、全体の様子をうかがうことはできません。」とあった。
石材は変成岩で、築造時期は7世紀前半と考えられるとも。

https://www.city.kasumigaura.lg.jp/page/page003274.html

 

仕切り石の前から開口部を。

 

フラッシュで。

 

立て札のあった分岐の横に、庚申塔の戴いた塚があった。

 

塚の上から。この先の台地下、800mに霞ケ浦水面。

 

振り返っての太子古墳への分岐。太子古墳の陪塚のようにも感じられた。

 

そばに神社があったので参拝した。

 

屋外談話室のようなスペースも。

 

その先に小さなお社。

 

振り返えったところにあった小さな依り代にも一礼。