墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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明徳稲荷~蜀江坂~淀橋咳止地蔵尊 東京都中野区中央・新宿区北新宿

前回のつづき。

宝仙寺の界隈を歩いていたとき、住宅街で玉垣が目に入ったので行ってみた。

「本町通り公園」のとなり。

 

立てられたばかりの説明板があった。

明徳稲荷(めいとくいなり)
明徳稲荷は、江戸時代の中野村の名主であった堀江家の屋敷(21,000㎡)の東北の隅に位置しています。
東北の方角は古来より、鬼や災難が入ってくるという鬼門として忌み嫌われていたため、その方角に神を祀って鬼門除けとしたのです。
堀江家に伝わる文書には、中野宿で市場の繁栄と安全のために祀った市神という神社の記録があり、これが明徳稲荷にあたるのではないかとも考えられます。
大正時代に地元の人たちが堀江家から譲り受け、現在に至っています。関東大震災と太平洋戦争の際に罹災しているため、建造物や古記録は残っていませんが、狐の彫り物のある慶応三年(1867)の手水鉢に、わずかながら往時をしのぶことができます。
平成29年2月 中野区教育委員会

 

神輿蔵(?)もある。

 

社の両脇の狐様には油揚げが供えられていた。

 

宝仙寺の東側の「塔の山公園」へ向かい、公園脇の坂を降りると段差が現れた。

 

広い山手通りを横断し、さらに東へ進むと神田川。

上流の南側。

 

下流の北側。

 

その先は住居が密集する、行き止まり細道が多いエリア。地図に出た蜀江坂公園を目指して進むと新宿区の柏木地域センターがあった。

 

その脇には、公園に続く魅力的な細道。

 

蜀江坂公園は広くは無いが木蔭と遊具で充実していた。 

 

公園から蜀江坂への通路。

 

見慣れた新宿区の坂名柱があった。

蜀江坂(しょっこうざか)
かつて、この辺りが蜀江山と称されていたためこう呼ばれる。蜀江山の由来は天慶の乱の時、平将門(あるいは弟の将頼)が蜀江錦の衣の袖を落としたから、あるいは江戸時代に三代将軍家光が鷹狩でこの地を訪れた時、紅葉の美しさを蜀江の錦のようだと賞賛したからだという。

 

坂上方向。傾斜は緩い。

 

坂下方向。

 

蜀江坂を下ると広い通りに出た。交差点の一隅に小さなお堂があった。

 

「淀橋咳止地蔵尊」

 

堂内に、移転を記した「落慶記」があった。

淀橋咳止地蔵尊落慶記
淀橋咳止地蔵尊は、宝永5年(1708)10月24日に建立されたときく。以前は、北新宿2丁目201番地2にあった。
平成18年の東京都市街地再開発事業道路拡幅工事に伴い、土地所有者の寄進をえて、地蔵講がこの地に移築したものである。移築にあたって、土地は巴会館と共に柏木総鎮守鎧神社境内とし、ご尊像とお堂をそのまま移した。
この大事業に、ご厚情をお寄せくださった鎧神社とご尽力された方々に深甚なる謝意を表し落慶法要を営む。
平成18年7月吉日 淀橋咳止地蔵講

 

手作りのような羽織と帽子で大切にされていて、温かい気持ちが伝わってきた。