墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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柳田布尾山古墳 富山県氷見市柳田字布尾山

前回のつづき。

氷見駅からは車で10分ほどの柳田布尾山古墳を目指した。 氷見バイパスから右折し丘を上がったところに立地する。

薬師岳登山を決めた際に、まず訪ねようと思った古墳。 

 

広い駐車場にはトイレも完備。

 

墳丘への入口。

 

”古墳館”を併設した古墳公園になっていた。

 

墳丘へのアプローチはいつもワクワクする。

 

階段を上がると素晴らしい墳丘があった。 

 

国史跡・柳田布尾山古墳(やないだぬのおやまこふん)

全長107.5mの日本海側最大の前方後方墳。築造は3世紀末~4世紀前半の古墳時代前期。

史跡 柳田布尾山古墳(やないだぬのおやまこふん)
富山湾を望む地に築造された全長107.5mの大型前方後方墳。平成10年に発見されて注目された。前方後方墳としては日本海側最大で、全国でも十指にはいる。
周囲の前期古墳と比しても隔絶した規模を持ち、日本海の海上交通を押さえ周辺を掌握した首長の墓と考えられる。北陸の古墳時代の政治・社会を考える上で重要である。
平成13年1月29日付け 文部科学省告示第8号 

なお、葺石や埴輪は出土していないそうだ。 

 

墳丘のふもとに実測図等高線を積み重ねた縮小模型が展示されていた。

 

大きさに関する表示。

立地:標高約25m、平野との高低差約18mの丘陵上。
墳形:前方後方墳。前方部を北北西に向ける。
規模:全長107.5m 後方部長さ54m、幅53m、高さ10m 前方部長さ53.5m、幅49m、高さ6m
時期:古墳時代前期の3世紀末から4世紀前半頃と推定。
2号墳:直径25mの円墳。詳細な時期や内容は未調査。

 

複数の解説板があった。

弥生時代の布尾山

古墳盛土内から弥生土器の破片が多数出土しており、古墳築造前この場所に集落があったと推定されます。

 

古墳の立地

富山湾を臨む丘陵上に側面を海に向けて築かれ、墳丘中心線の南東延長には二上山丘陵が位置します。

 

古墳の築造

古墳総体積の約60%は粘質土と砂質土を交互に積んだ盛土で、墳丘は2段に造られていました。

 

埋葬の様子

後方部では盛土の途中で、埋葬を行う穴が丁寧な盛土で造られ、粘土で包まれた木棺がおさめされました。

 

古墳の出入口

前方部には周濠があって周囲と区画されていましたが、北東隅には陸橋上に掘り残され、出入口になっていました。

 

地域の古墳

富山県では主として平野や海を見下ろす丘陵上に古墳が築かれていますが、平野部の発掘調査で墳丘の失われた古墳が見つかることもあります。

県内の古墳は今のところ1000基近くあると考えられています。

また終末期には県西部を中心に、丘陵斜面に墓室を掘り込んだ横穴(横穴墓)と呼ばれる有力者の墳墓が営まれています。

氷見には円墳・方墳・前方後円墳・前方後方墳のほか、前方部の短い帆立貝形古墳など400基近くが確認されており、横穴も数多く分布しています。

 

前方部側からみた墳丘模型。

 

前方部右下側から墳丘。

 

前方部へ上がる階段がついていました。

 

階段を上がって、前方部先端から後方部。

 

小道を辿り後方部墳頂へ向かう。後方部への延長線上には二上山がある。

 

後方部墳頂。

 

埋葬施設のあった位置が、長軸に沿って示されていた。

 

その解説板。盗掘を受けているので副葬品はほとんど見つかっていない。

埋葬施設
埋葬施設の大半は、過去の盗掘によって失われていましたが、発掘調査の結果、地表から約2.5m下の地点に、木棺の周囲を粘土で包んだ粘土槨とよばれる埋葬施設があったことがわかりました。
ここでは粘土槨の位置をブロックで表示しています。なお粘土槨の大きさは、各地の調査例を参考にして推定したものです。

 

墳頂から富山湾側の眺め。左奥は能登半島の山並み。

 

パノラマで。

 

ズームすると海が。海岸線までは約2km。

 

後方部から前方部。左奥の塔は古墳館。

 

パノラマで。左右にくびれ部がぎりぎり写った。

 

後方部の先端。丘陵を削りだしてぎりぎりの大きさに築造されたことがわかる。

 

後方部の右上・南側の眺め。

 

後方部の左上にあたる方向に円墳(2号墳)があった。

 

後方部先端から降りて見上げたところ。

 

2号墳の解説。

2号墳
直径約25mの円墳です。柳田布尾山古墳との間に幅約5m、深さ約1.6mの周濠がめぐっていました。
2号分の中心部は調査していないため、築造時期や詳しい内容は明らかになっていません。

 

2号墳のある側から後方部側面。

 

下から見上げるくびれ部。

 

後方部左下の角。

 

後方部角のあたりから前方部。

 

このあたりに丘陵下の住宅地へ向かう道がついていた。

 

前方部の左下から。石で陸橋の位置を示してあった。

 

前方部左下からパノラマで。

 

「周濠と陸橋」の説明板。

前方部の周囲には幅5~8m、深さ1.2~2.3mの周濠がめぐっていました。
前方部隅のこの部分では、周濠が途切れて陸橋状に残されており、墳丘への出入口として利用されていました。

 

そのまま墳丘の右サイドへ。右側からのパノラマ。左が前方部・右が後方部。

 

右サイドの後方部、くびれ部の角。

 

後方部右上の角。

良好に残った墳丘だが”発見”は、つい最近の1998年。山林だったところが開発されようとした際に、地元研究者の踏査で判明したそうだ。

 

墳丘のふもとを一周したところで、立派な石碑があることに気づいた。記念写真向きのスポット。

写真の枚数がかなり多くなったが、魅力的な墳丘だったことに加え、ブログタイトルどおりのエントリが続けて書けることに高揚してしまった。

このあと併設の古墳館を見学した。

つづく。