前回のつづき。
普段は墳丘を見る前に資料館見学を心がけているが、ここも須曽蝦夷穴古墳の時と同様に、先に墳丘に足が向いてしまった。
前方部の足元に展望施設のある資料館、柳田布尾山古墳館があった。
入館無料で9時~16時の開館。月曜日と12月から3月中旬までは休館。
無料のパンフレットをいただけるが、興味深い資料も販売していた。
係りの方は昔、森だったこのあたりで墳丘とは知らずに遊んでいたそう。
まずは展望台への階段へ。2重螺旋になっていた。
上からみたところ。
最上階の展望スペース。
手前が前方部、その先が後方部で、後方部の下隅が角張る前方後方墳特有の姿が観察できた。
前方部上の傾斜もよくわかる。
それぞれの方向に説明文が記されていた。
南側の眺望。
南側の眺望
柳田布尾山古墳の向こう側にそびえるのが二上山丘陵です。
古墳が築かれてから約400年後の奈良時代中頃、万葉集の編者として知られる大伴家持が、越中国守として高岡市伏木地区にあった国府に赴任しました。
家持は二上山を「神からやそこば貴き(巻17 3985)」あるいは「神さびて立てるつがの木(巻17 4006)」と、神の宿る山として歌に詠んでいます。
柳田布小山古墳の前方部に立ち後方部を見上げると、その背後に二上山丘陵が横たわっています。古墳時代の人々も、二上山の威容を十分に意識していたのではないでしょうか。
東側の眺望。墳丘からも海が望めた方向。
東側の眺望。
遠く富山湾が広がり、天気が良ければその向こうに立山連峰を見ることができます。
海の手前、左右に伸びるのが松田江浜、夏場には海水浴客で賑います。海岸線沿いに宅地が広がるあたりは砂地の微高地で、古くから畑作が行われています。
さらに手前、水田や商業施設が立ち並ぶあたりは、古墳時代には布勢水海(ふせのみずうみ)の入り江があったと推定され、物資を積んだ舟が航行し、船着場もあったことでしょう。
柳田布尾山古墳は、もっとも大きく見える側面をこの方向に向け、行き交う人々にその姿を印象づけています。
北側の眺望。
北側の眺望
海岸線が弧を描いて延び、その途中に氷見市街地を望むことができます。
市街地の南寄りには、縄文時代の集落として知られる国指定史跡朝日貝塚があります。この遺跡は富山湾と朝日山丘陵の間に位置し、布勢水海の出入口にもあたります。海山の幸に恵まれ、潟を通した交通に便利な場所といえます。朝日貝塚は縄文時代以降も弥生時代・古墳時代・古代・中世の遺物が出土しています。そして14世紀には市街地の前身となる氷見湊が成立しました。海岸線のさらに先には、日本で初めて発掘調査された洞窟遺跡、国指定史跡大境洞窟住居跡もあります。
西側の眺望。
西側の眺望
林で隠されていますが、その向こう側の平野には布勢水海が広がっていました。ただし、平野がすべて潟ではなく、下にある地形模型のように、古墳時代にはすでに潟の周囲に平野が形成され、農業を基盤とした集落があったようです。
また古墳時代後期には、潟のほとりに越中最古の須恵器窯である園カンデ窯が操業されました。おそらく背後の平野や丘陵から土器生産に必要な粘土や薪を得ることができ、完成した製品を運び出すのに水運を使うことができる便利な場所であったと思われます。
下の写真が布勢水海を再現した模型もあった。
右下が北方向の富山湾からの眺めで中央の山裾に柳田布尾山古墳がある。その右、潟に突き出した場所に園カンデ窯。
布施水海を挟んだ手前の砂地微高地には柳田遺跡がある。
左下隅の黄色はこのあと向かう桜谷古墳群。
検索していたら興味深いサイトがあった。
日本海学推進機構:研究と活動:第4回 「古墳から見る日本海の王者」 - 第4回 「古墳から見る日本海の王者」
布勢水海のような「潟・潟湖(ラグーン)」は山陰から富山にかけて30~100kmの距離で偏在する。それは舟で1日で航行できる距離であり、当時の操船技術では波穏やかな潟が港となって潟湖が沿岸交易・交通の拠点的役割を担っていた。よって水田をつくるような土地が少ないこのような場所であっても交易を掌握する有力者が現れ、大きな墳墓が造られたという説。
4世紀前半に築造された柳田布尾山古墳にもそんな人物が眠っていると推定される。
資料館にはわかりやすいパネル解説もあった。
古墳の立地と向き
北陸地方の古墳のほとんどは、平野や海・潟などを見下ろす丘陵や台地の上に築かれています。
柳田布尾山古墳も、古墳が最も大きく見える側面を、布施水海の入り江や平野、さらには遠く富山湾の方向に向けています。
一方、古墳の中心線を南東方向に延ばすと、二上山丘陵に達します。古墳の上で埋葬儀式が行われたとき、前方部に参列して後方部を見上げた人々の視線の先に、二上山の山容が映っていたことでしょう。
墳丘の造り方。
墳丘の造り方
古墳が築かれたのは標高約25mの砂層から成る台地の上です。地山を前方後方形に削りだした土台に、前方部では厚さ約4m、後方部では厚さ約8mになる盛り土をして築かれています。盛り土の量は資産で約14,000㎥と推定されます。
盛り土は砂質の土を粘土質の土を交互に重ねてあり、崩れにくいように工夫されています。
また墳丘斜面の途中に一段、幅の狭いテラスを設け、二段に築成されていたと考えられます。
なお、柳田布尾山古墳に墳丘の表面を石で覆う葺石や、埴輪は採用されていません。
柳田布尾山古墳の位置。
日本がまだ「倭国」と呼ばれていた時代、定型的な前方後円墳が出現する3世紀後半頃から7世紀頃まで、墳丘をもつ墓が築かれた期間を、考古学では古墳時代と呼んでいます。
古墳時代には九州から東北地方南部までの範囲に、数多くの古墳が築かれました。
氷見を中心とした富山県西部から石川県能登地域は、日本海側で古墳が多く集中する地域の最も東側に位置しています。
柳田布尾山古墳は前方後方墳としては日本海側最大規模の古墳です。また、日本海の全長100mを超える大型古墳の分布でも、最も東側に位置しています。
赤い点は全国の主要な古墳分布だが、関東にも結構多い(特に千葉県!)ことがわかる。
古墳整備までの歩みには、1998年6月24日に当古墳を発見した西井龍儀氏の名があった。
現状の航空写真。墳丘に角を接するように介護施設の建物が迫っている。
残ってよかった。発見者の西井氏に感謝。
つづく。