墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

画像が出ない場合はPCで、クロームOSでお試しください。

国史跡・ナガレ山古墳 @馬見丘陵公園 奈良県北葛城郡広陵町・河合町

前回のつづき。

巣山古墳は馬見丘陵公園(うまみきゅうりょうこうえん)と接していた。公園側から眺める巣山古墳。

 

見ていた場所は公園内の「古の丘」

 

古の丘の西側にも墳丘的な高まりが。

 

三吉(みつよし)2号墳 帆立貝式古墳 全長90m 5世紀後期

 

整備された墳頂。現地案内板を見つけられなかった。

 

墳頂から北方向。

下記の広陵町のサイトでは全長93mとある。後円部の南東で円筒埴輪を埋葬施設とする三吉3号墳も調査で確認された。観光 古墳 2 | 広陵町

 

墳丘を降りたところに馬見丘陵公園全体図があった。池の周囲に古墳が散在している。右が北。

馬見丘陵公園 - Wikipediaによれば面積は47.1ha(2008年時点)、計画面積は65.3haとのこと。TDRの51haほどの広さになる。

 

下記は奈良県公式ホームページの古墳のマップ。

古墳分布図

1:池上古墳、2:乙女山古墳、3:倉塚古墳、4:一本松古墳、5:別所下古墳、6:ナガレ山古墳、7:巣山古墳、8:狐塚古墳、9:三吉2号墳、10:タダオシ古墳、11:文代山古墳、12:カタビ古墳群、13:馬見二ノ谷遺跡(旧石器期)

 

上記公式サイトには馬見古墳群全体についての記述もあった。

馬見丘陵は、香芝市・広陵町・河合町など2市3町に跨る標高70m程度の低い丘陵地で、南北約7km・東西約3kmの区域です。また、丘陵一帯は馬見古墳群のエリアで、古墳の集積地となっています。

 昭和40年代後半より丘陵西部では真美ヶ丘や西大和ニュータウンなどの大規模宅地開発が始まりましたが、丘陵東部に位置する馬見丘陵公園は、これらの開発から自然や古墳群を保全するため、昭和59年8月に都市公園(広域公園)として計画決定し、同年度より公園事業に着手しました。

 馬見古墳群は奈良盆地における佐紀盾列古墳群、大和柳本古墳群と並ぶ大和3大古墳群の1つで、4~5世紀に築造されたものが多く、250基を超える大古墳群です。

馬見古墳群の一画にある当公園内には池上、乙女山、倉塚、ナガレ山、別所下、狐塚古墳など多くの古墳が存在し、うち2箇所が史跡指定されています。

 

公式サイトには「馬見」の地名由来も下記3通りが記されていた。

・馬の放牧地。上牧や下牧の地名も残る。

・4つの河川の囲まれた丘陵エリアが馬の背の形

・聖徳太子が馬に乗って四方の景色を見ながら通った

 

 

どこから回ろうか迷ったが、まずはナガレ山古墳へ向った。

園内にはさまざまな樹木が植わっていた。2月末のネコヤナギ。

 

ナガレ山古墳は丘陵の地形を活かして築造されていた。

 

階段を上ると、葺石と埴輪列が復元された荘厳な姿があった。

国指定史跡・ナガレ山古墳 全長105mの前方後円墳で5世紀前期の築造。

 

解説板が充実していた。

史跡ナガレ山古墳は、昭和50年(1975)から昭和51年(1976)にかけて土取りにより一部が破壊されたため国の史跡に指定され保存されてきました。

昭和63年(1988)から発掘調査を行い、整備工事を進めてきました。

・整備の概要

整備は、破壊された部分の墳丘を造り、東側には埴輪を並べ、葺石を葺いて築造当初の姿に復元しました。西側は芝生を張って整備し、1600年前の姿を同時に見ることができるようにしました。

・掘調査の成果

発掘調査では、2段分の円筒埴輪列と葺石を確認しています。また、東側くびれ部の前方部寄りで、円筒埴輪を2列に並べた通路を確認しました。

後円部墳頂の埋葬施設は明らかではありませんが、盗掘の際に捨てられた土から勾玉など多くの遺物が出土しました。

また、前方部墳頂にも埋葬施設があり、箱形木棺を粘土で覆った粘土槨です。木棺を覆った粘土の中に多数の鉄製品が埋納されていました。

墳丘に並べられていた埴輪には、円筒埴輪の他に朝顔形、蓋形、盾形、家形埴輪などがあります。土師器や土製品も多く出土しており、これらの遺物から5世紀初めに築造されたと考えられます。

 

上記の平面図部分。復元されたのは半分だが横から見る分には充分な迫力。

 

この変遷絵図が面白かった。

 

円筒埴輪は675本立っており、その7割はFRP樹脂だが、3割は地元の方々が粘土で製作した。

 

墳丘の下に葬送の際に墳丘へ上る通路が設けられていたとのこと。

墳丘内通路 The way of leading to the top of mound

発掘調査により、墳丘裾の埴輪列に直交する2列の埴輪列を確認しました。この2列の埴輪列部分は周囲より少し高くなっています。また、2段目埴輪列もこの遺構の延長線上で途切れており、墳頂部でも埴輪列は確認されませんでした。このことから、この2列の埴輪列で区画された遺構は、葬送の際に墳丘を登る通路であったと考えられます。

北側の埴輪列では1本分間隔が広くなっている部分があり、くびれ部への入口として意識されていたようです。くびれ部では滑石製模造品(鉄製の斧やナイフを模造した滑石の製品)が故意に割られたような状態で出土しており、滑石製模造品を用いた祭りが行われたようです。

 

前方部先端から墳丘へ上がった。右は葺石だが左は芝生。

 

1段目に上がって右側。

 

上記の左側。

 

前方部先端から後円部。

 

前方部で見つかった埋葬施設の位置が記されていた。

 

前方部と後円部との比高差は4〜5mくらいか。

 

後円部から前方部。

 

復元された半面。埴輪列もくびれに沿って廻っている。

 

後円部墳頂は結構広かった。二上山が望めた。

 

後円部から東側には奈良盆地が広がっていた。10kmほど真東に大和・柳本古墳群がある。晴れていれば龍王山も見えたはずだが、雨が上がっていてよかった。

 

北東側には乙女山古墳の木立が。

 

東方向のパノラマ。

 

南西方向。

 

後円部先端から降りた。

 

後円部下に隣と区域を分けるように埴輪列があったそうだ。

北西の尾根を区切る埴輪列

The row of Haniwa which divided the ridge

史跡ナガレ山古墳の北西側に延びる尾根上には、小規模の円墳があります。この北西側部分では墳丘の外側にさらに1列の埴輪列を設けていました。この埴輪列は尾根を区切るように直線的に並べられ、墳丘裾や2段目の埴輪列より間隔を広く並べています。この埴輪は他のものより大型でした。

この北西部分の墳丘裾の埴輪列内に2本の盾形埴輪が盾も面を墳丘外に向けて置かれていました。このことから、外側の埴輪列と共に、墳丘の内と外とを明確に区別する意図があったものと考えられます。

 

 上記の図面部分。

 

手前の植え込みが埴輪があった場所を示している。

 

北西側に園路が続いていた。このあたりにも墳丘があったようだがわからなかった。

 

再びナガレ山古墳に戻る。

 

下から見上げるくびれ部。

 

当時の人はどのような気持ちで見ていたのか。

 

墳丘から降りたところに周囲の古墳の立体模型があった。古墳だらけで目がくらむ。

中央右手前がナガレ山古墳。

 

上記の説明図部分のアップ。

 

立体地図の近くにあった桜の木。今頃咲き始めているのだろうか。

桜の向こうにナガレ山古墳がある。

 

グーグルアースで見るとこのようになる。

 

 

ちなみに、葺石で復元された古墳は東京にもひとつ、群馬にもひとつある。

・東京都府中市 武蔵府中熊野神社古墳 

墳丘には入れないが、復元石室施設に入れる。

 

・群馬県高崎市保渡田町 八幡塚古墳

全長96mの墳丘全体を葺石と埴輪群で復元した壮大な古墳。

 

史跡と桜はとても良く合います。こちらは以前エントリした”お勧め”です。

関東近郊・桜花見の私的お勧め8選 古墳・史跡編 - 墳丘からの眺め

 

つづく。