大塚山古墳は、前回までの桜生史跡公園から300mほど北北東、新幹線の高架をくぐった先に立地。
丘から降りた平地に築かれた帆立貝形古墳。
すぐ脇を東海道新幹線が高速で通過。”車窓古墳”でもありますね。
北西側に幅に大小2つの突出部が近接して並びます。説明板では2つの「造り出し」と記されます。
東京都の野毛大塚古墳の大小2つの突出部を持つ「帆立貝式前方後円墳」で、大きい方は「前方部」で小さい方は「造り出し」
大塚山古墳も大小2つの突出部を持ちますが「帆立貝形古墳」で、2つとも「造り出し」
確かに大きい方の突出部の規模は野毛大塚古墳のほうが大きく、大小の違いも明確だからでしょうかね。
グーグルアースで。左上に「造り出し」
現地解説板のひとつ。
国指定史跡 大岩山古墳群
大塚山古墳
大岩山丘陵から冨波(とば)の平野部には、3世紀後半から7世紀初めにかけて、冨波古墳、古冨波山古墳、大塚山古墳、亀塚古墳、天王山古墳、円山古墳、甲山古墳、宮山2号墳などの首長募が連綿と築かれています。
昭和16年(1941)に指定された円山古墳と甲山古墳は、昭和60年(1985)2月に名称を大岩山古墳群と改め、同時に残りの6基も追加指定されました。
大塚山古墳は、扇状地(標高100m)に築かれ、二段以上の段築を有する帆立貝形古墳で、墳丘を取り囲む水田は馬蹄形になっていました。
平成11年(1999)からの保存整備事業に伴う確認調査により、円丘部は直径57m、高さ8mで、その北西側に長さ8.5m、幅が22mと11mの二つの造り出しがあることがわかりました。東側の小さな造り出しの周辺からは鶏、船、水鳥、家、蓋など多くの形象埴輪が出土しました。また、墳頂からは滑石製模造品、短甲、ガラス玉、須恵器などが出土し、5世紀前半に造られた古墳であることがわかりました。
保存整備事業は、文化庁、滋賀県の補助事業として実施しました。墳丘の一段目と造り出し、周濠を盛土で保存し、検出位置の上面で葺石等を復元しています。
平成16年(2004)3月 野洲市教育委員会
解説板は他に5つも!
重複する部分が多かったので、それぞれの書き起こしは割愛させていただきます。
最初の説明板になかった点を下記に。
・周壕(幅13m~20m)あり。更にその外周、堤(幅5~10m)を挟んで溝(幅3m以上)が廻る。
・葺石あり。一定間隔で縦方向に並びを揃えた石列あり。造り出し部の葺石は、傾斜が緩やかで貼石状に並べられる。
・墳頂部では発掘調査と地中調査により埋葬施設の輪郭が確認されている。調査区からガラス玉等が出土。
・墳丘上を取り囲むように並べられていたと考えられる円筒埴輪や朝顔形埴輪が斜面から見つかっている(東西のくびれ部からは円筒埴輪の底部を確認)
・小さな方の造り出し周辺部からは鶏(復元高80㎝)、船(準構造船)、家、蓋、水鳥、盾、甲冑形の形象埴輪が出土していて、造り出し上では形象埴輪による祭祀が行われたと考えられる。
・濠の外周部からはシカの絵画や記号が刻まれた円筒埴輪や人物埴輪も出土。
ちなみに、滋賀県教育委員会の資料には帆立貝形古墳ではなく”円墳”とありました。
http://www.shiga-ec.ed.jp/www/contents/1438304524592/html/common/other/55d173d3025.pdf
横から見た造り出し(小さい方)
その”付け根”。 左端が大きい方の造り出し。
小さい方の造り出しから、間の切れ目を。
大きい方の造り出しは、小さい方の2つ分くらいの幅。
北東側から。説明板には「2段以上の段築を有する」とあります。
二段目へ。
三段目へ。
墳頂は木々の中でした。
墳頂を横断して、南西側の階段を下りました。
新幹線は頻繁に通ります。
南西からみた墳丘。
堤と、その内外の濠。
堤を入れて、パノラマで。