前回のつづき。
古墳ツアー午後の部、墳丘ウォークの開始。
コースは下記(再掲載)で、黒塚古墳展示館から国道169号を渡って、北の大和(おおやまと)古墳群、次に南の柳本古墳群をぐるっと廻る。
国道169号沿いから龍王山の遠望。まだ2月だったが天候に恵まれ春のようだった。
国道からは行燈山古墳(崇神天皇陵)もよく見えた。
道路脇にあった「崇神景行天皇陵 歴史的風土特別保存地区」の標柱。
建築物・工作物の新築、改築、増築又は移転、及び色彩の変更、土地形質の変更、木竹の伐採、土石の類の採取、土石等の堆積等を行うときは市長の許可を受けなければならない。
守る方々がいて守られている、心和む風景。
一行は、国道からいきなり畦道へ入った。
龍王山に向って左に大和古墳群の尾根、右に柳本古墳群の尾根となる谷筋のあたり。
古墳群のある尾根筋にかかって緩やかな坂を上っていく。
さっそく墳丘に出会う。
小岳寺塚(しょうがくじづか)古墳という全長45mの前方後円墳。墳丘は果樹園になっている。
「古墳果樹園」の縁に沿って進む。一帯の木はこちらの名産の柿だそうだ。
すぐに「大和神社御旅所」に到着。中山大塚古墳の前方部の左裾に設けられていた。
この場所は山の辺の道にもあたる。
1.5kmほど東北東にある大和神社(おおやまとじんじゃ)の末社で、毎年4/1の「ちゃんちゃん祭」ではこの御旅所まで神輿が渡り神事が執り行われるそう。歯定神社と隣り合って中山大塚古墳の前方部左裾に鎮座する。
一行は神社の右手、墳丘東側の細道を上り始める。
少し上ると前方部に。
以下はいただいたパンフによる。
中山大塚古墳は古墳時代前期前半(4世紀前半頃)の築造。
全長約130m、後円部径約67m、後円部の高さ約15mを測る。標高約90mの尾根上に、後円部は2段、前方部は1段で築成されている。昭和60年以降に奈良県立橿原考古学研究所を中心とした学術調査が行われている。
ツアーの始めの講義で触れられていたのは、中山大塚古墳は古墳時代前期初頭に築造された大和古墳支群では一番古く、さらに、箸墓古墳に「前後」する最も古い古墳の候補であるとのこと。
墳頂の平坦面に葺石があり、四国東部に見られる積石塚に似た外見だったのではというコメントもあった。
現状での後円部との比高差が結構ある。ただしこちらの墳丘も、戦国時代に山城として再利用されたので築造当初の形状ではないとのこと。
右へ回り込んで上る。
後円部墳頂。広い墳頂だが植え込みがあるので入れる部分は限られていた。
2重の植え込みの中央部は竪穴式石室の埋葬主体部を、外側は石材を積んだ範囲を示している。
この下に長さ7.5m、天井までの高さ約2mの竪穴式石室が眠っていた。
石室の南北両小口に積まれていた石材は、大阪府羽曳野市と太子町の間に位置する春日山産の、隅に丸みをもつ輝石安山岩とのこと。
石室は盗掘を受けていたものの、銅鏡片(半肉彫獣帯鏡)2点や鉄器(鉄槍、鉄鏃などの細片)36点などが見つかっている。
パンフレットの以下の記述が大変興味深かった。
後円部石室の被覆石材上から宮山型特殊器台片が出土した。このほか、後円部墳頂では特殊器台形(都月型)埴輪・円筒埴輪・壺形埴輪・特殊壺形埴輪などの破片が見られ、墓坑埋め戻し後の墳頂にこれら埴輪類が樹立されたと考えられている。埴輪類の使用は墳頂部に限定され、西殿塚古墳のように墳丘を囲んで樹立されていたものではないらしい。特殊器台・特殊器台形埴輪・円筒埴輪がともに出土している点で、円筒埴輪を多量に配列する古墳祭祀の最も初期の様相を呈している。
後円部先端(北側)から。前方後円墳の軸と埋葬施設の軸とは共に南北方向に造られていた。
古墳の向きや埋葬主体部の向きに法則性があるように感じたが、お聞きしたところ一定の統一性を持つとは言えないとのことだった。
後円部の西側の眺め。
後円部東側。龍王山の方向だが木々が茂って眺望はなかった。
前方部西側に三角状に、後円部北側に扇状に、地山を整形したものとされる張り出し部を持つが墳丘上では確認できなかった。
後円部墳頂から前方部方向。
後円部から急な斜面をそろりと降りる。
前方部上は平坦。木々があっても歩きやすくて明るい墳丘だった。
前方部の先端。
墳丘を降りて、さらに尾根筋の上部にある古墳を目指した。
つづく。