前回のつづき。
中山大塚古墳の墳丘から降りて御旅所に戻り、墳丘の左側面(西側)に沿って北へ行くとすぐに念佛寺。
門前には大きな一休さん。
近くには石碑のピラミッドが。
その向かいに六地蔵があり、そこに燈籠山(とうろうやま)古墳の説明板があった。ここから右の小道を上って行く。
写真入りの説明板。この前方後円墳の東西方向を軸とし前方部を西に向けている。
燈籠山古墳 (古墳時代前期)
燈籠山古墳は、東殿塚古墳・西殿塚古墳・中山大塚古墳などと同じ丘陵上に位置する前方後円墳です。この丘陵上に位置する古墳は前方部を南に向けますが、燈籠山古墳だけは西に向けています。
古墳の規模は、現状では全長110m、後円部径55m、後円部高さ6.4m、前方部幅41m、前方部高さ6.3mを測ります。墳丘は大きく改変されていますが、前方部・後円部とも3段に築かれていた可能性があります。墳丘の北・南・東の三方に平坦面があり、東側は墓域を区画するために丘陵を切断した痕跡、南側と北側は墳丘に盛る土を取った痕跡と考えられています。
発掘調査が行われておらず、埋葬施設は不明ですが、後円部では竪穴式石室の部材と見られる板石が多く採集され、石材鑑定の結果、大阪府柏原市や遠くは徳島県で産出する石材であることがわかりました。また、墳丘各所で円筒埴輪や朝顔形埴輪の破片が採集され、埴輪列が墳丘を囲んでいたと考えられています。
その他の出土品には、埴製枕、埴質棺、石釧・勾玉・管玉など装身具が知られています。特に埴製枕は長辺36.8cm、短辺29.4cm、厚さ8.0cmの長方形で全面に朱が塗られており、中央を頭の形にくぼませて周囲に鋸歯文や幾何学文などを線刻したものです。
これらの特徴から、古墳の築造時期は古墳時代前期前半(4世紀前葉)と考えられます。
平成23年(2011)3月 天理市教育委員会
林立する墓石の向こうに古墳。
おそらく正面が前方部の右裾。
後円部は果樹園になっている。
グーグルアースで見ると、身が骨だけになった魚のよう・・・
後円部の下から。ここは柿ではなく柑橘類のようだった。
振り返ると中山大塚古墳の墳丘が迫る。その後円部と燈籠山古墳の前方部は30mほどしか離れていない。
さらに道を上って行く。右側斜面は一面の柿園。
道の左手に大きな墳丘(西殿塚古墳)が見えてきた。
実は西殿塚古墳の西側の柿園にも前方後円墳が隠れている。
北を向く火矢塚古墳。正面奥に後円部の土盛りがある。
全長49m、古墳時代前期の前方後円墳。
一行はそちらの墳丘へは寄らずにそのまま道なりに東へ、西殿塚古墳の遥拝所へ向った。
つづく。