前回のつづき。
常夜灯を見た後に、再び権現道、行徳街道へ戻った。
教信寺 こちらも権現道沿いにある。2階に上がって本堂という形。
1570年開創。戦前まで信楽寺(しんぎょうじ)として残ってきたものの昭和20年の空襲で堂宇すべて焼失、昭和28年に教善寺と合併して現在に至る。
お寺も企業のように合併するのだと知った。
行徳街道に戻って、国登録有形文化財の「旧浅子神輿店」 昭和4年築
説明板があった。かつて神輿造りが地場産業だった。
国登録有形文化財 旧浅子神輿店店舗兼主屋
近世中期から近代にかけて製塩と舟運で栄えた本行徳において、神輿造りは一つの地場産業でした。この中にあって、室町時代末期に初代浅子周慶が創業したとされる浅子神輿店は独特な神輿造りで広く受け入れられた老舗でした。昭和4年に上棟した店舗は、木太く豪快な正面の造り、粋を凝らした二階南側の窓縁や庇屋根の造り、また露盤(ろばん)鳳凰の立体的な躍動感のある造り、屋根の反転曲線や幹反りを古式にした優雅さなどが特徴です。
行徳の歴史を語る上で貴重な歴史的建造物を保存・活用するために、市川市が取得し、平成22年には国登録有形文化財として登録されました。
所在地 市川市本行徳35-7
構造形式 店舗 木造二階建、切妻造、桟瓦葺、東面前庇付属 西面居住棟接続
居住棟 木造平屋建 寄棟造、桟瓦葺、南面庇及び玄関付、北面庇付
建築面積 137.84㎡(1階部分と2階部分の合計)
市川市
神輿店のすぐそば、行徳街道が鍵状になったところにある現役の畳店。
畳店の斜め裏ぐらいにある胡籙神社(関ヶ島胡録神社)
比較的小さな神社だが5年に一度大きな祭りが行われる。
1575年(天正3年)創建。
境内にある土俵は地元の相撲経験者達によって作られ、横綱栃錦(春日野元理事長)が行徳を訪れる度に相撲を取ったそうです。その名残からか、現在でも毎年7月にはちびっこ相撲大会が開催され、豆力士たちの熱戦に歓声が上がります。
さらに権現道はつづく。
途中(上の写真の奥の右)にあった瓦屋根や彫り物の立派な祠。地図には名前が無く案内板もなかったがとても気になった。
その先を回りこんで徳蔵寺。
山門、本殿ともに大きい。
こちらも1575年(天正3年)建立。毎月28日に不動堂で護摩が行われ、8月28日には縁日が開かれるそう。
豊受神社 徳蔵寺の南西150mほどの場所にある。
鳥居は行徳街道に向くが、鳥居と本殿とは90度曲がる。
関ヶ島胡録神社と同じく、3年に一度の10月に例大祭があり「大小の神輿の渡御が行徳独特の揉み方で大変盛大に行われます」
昨秋終わったばかりで次回は2017年。隣の市に20年住んでても知らない祭りだった。神輿が「揉む」ものだとはじめて知った。
神輿は台座の長さが2.7mという壮大なもので 、白装束の揉み手24人、音頭取り2人、合計26人で揉まれます。神輿の揉み方は行徳独特のもので、(1)地ずり(神輿を腰より低く下げる)状態で回転する。(2)さし(片手で神輿を高くさし上げる)の状態で回転する。(3)神輿を頭よりも高く放り上げ受け止めるまでに手を2回たたいたりする(放り受け)、といったものです。
近くには長大な木造民家があった。
清岸寺 豊受神社の100mほど南西にある。こちらも本堂が2階にある。
1610年の開創。「往年の当寺院境内地は荒蕪不毛の地で妖怪化生の出るようなところであった」そうだ。
おかね塚。写真に撮ったのは「由来の石碑」の方で塚は左端に一部写っている石像。
おかね塚 むかしむかし、製塩に使う燃料を運んでいた船頭が吉原の遊女「かね」と親しくなり夫婦の約束をしていました。年季が明けたかねは船頭を待っていましたが、いくら待っても船頭が現れることはなく、かねは悲しみの中に亡くなりました。これを聞いた遊女たちが供養の碑を建てたと言われています。周辺では昭和の初めまで、かねの幽霊が出るという噂があったとか。(既出の小冊子「ぎょうとく」より)
光林寺 ここまで来るとかなり行徳駅に近い。
光林寺 中世末期の天文年間(1532~1554)と伝えられているが、江戸期の寛政3年(1791)8月6日の大津波や大正3年の大津波などたびたびの被害に逢い過去帳並びに古文書類が流出し、詳細な沿革は不明である。
光林寺からは南東に細い参道が続いていた(奥が光林寺)
押切稲荷神社 光林寺からの参道の先にある。行徳駅から北西に向かうバス道沿いにあるが、その道には背を向けたポジションになっている。
左隣に浅間神社。境内は結構広い。
神社だけど御尊体は十一面観世音菩薩。奈良の長谷寺の御尊体の写しで350年程前の津波による本殿破壊で、葛飾の里鎌田邑の長寿院に預けられたのを大正2年に返還されたそうだ。
まだ日があったので、押切稲荷の説明板にあった湊水天宮にも行ってみた。
堤防沿いの小さな社。
毎年6月の最終土曜日に祭礼があり、数千名の参拝者があるそうだ。夕方がピークになるらしい。今年は来てみよう。
水神宮の隣は「押切排水機場」
ここに「行徳河岸(祭礼河岸)旧跡」の説明板があった。
貨物専用の河岸。
最初の祭礼河岸は寛永8年頃(1631)まで光林寺の南、稲荷神社の西あたる押切13番、14番付近に設置されたと推定されます。元禄3年(1690)この付近に移設されました。
銚子などからの魚、スイカ、ウリ、前裁、大根、薪、塩、米その他の産物が馬で運ばれてきて積み出されました。
昭和の初め(1926~)頃でも荷足舩が20~30艘ほどが入れる広さで、葛西船により下肥が運ばれてきて小型の肥やし舟に移して内匠堀に入り水田に運ばれました。
先ほどの押切稲荷が道路に背を向けていたのは、道路がもともと水路(堀)だったからだと合点した。
排水機場の強大な鉄板(仕切り板?)
暗渠へ向かう入口。
この日に訪ねた神社12社、お寺14寺。
本エリアで行けなかった寺社も多く、また南行徳、浦安にかけても寺社が続く。
駆け足で回ったが、まさに「戸数千軒、寺百軒」と呼ばれた風情を残していた。
多くの寺社の創健が江戸時代直前の16世紀後半に集中していることが興味深かった。
下は昨年春に徳願寺に参拝した時にいただいた「回遊展」と「 行徳・浦安三十三ヶ所観音霊場巡り」の案内。賑わいが好きであれば、この時期に訪ねてみるのはよいのでは。
さすがに3日かけている。
行徳編終了です。