前回の、行徳・徳願寺のそばの権現道を入ってのつづき。
徳願寺の江戸時代の様子は「江戸名所図会」にも描かれている。
寺域の左端の四辻はかつては橋だったことがわかる。左に斜めに走るのが行徳街道。
権現道は橋のかかる小川と行徳街道との中間を並行する。
出典は、前々回にも地図を載せた、市立市川歴史博物館で購入の「行徳レポート その(1)~年表・地図集」
寺町通りの入口から100mほどで法泉寺。駐車場が広い。
開基は1570年。境内で徳川家康が鷹狩り途上で3回休んだそうだ。
権現道は、その先もくねくねと続く。
妙覚寺 その目の前の、説明板を撮りそびれた。
園頓寺(えんとんじ)
1584年(天正12年)の創建。久音寺から株分けされた「しだれ桜が盛観」とある。
浄閑寺 芝の増上寺の末寺。
「行徳ではめずらしい寺領地としての参道があり、行徳街道より本堂向拝まで一筋の敷石でつなげられている」とある。
つきあたりが行徳街道。気持ちのいい一本。
門前の六地蔵。
その先の正讃寺。ここも、その目の前の説明板を撮りそびれた。
権現道は正讃寺の壁に沿ってカーブし、橋のあとを越えた。
いかにもの、暗渠の蓋の川跡道。
そのそばにある八幡神社。行徳街道に正面を向けている。
この日に訪ねた限りでは、お寺は正面が権現道に沿い、神社は行徳街道に沿っていることが多かった。
八幡神社の説明板。富士塚には気がつかなかった。やはり説明板は現地でしっかり読む必要がある。
しかしこの時は夕暮れが迫っていたので写真に撮るのが精一杯だった。
権現道にもどって本久寺。
1572年創建。1917年・大正6年(ということは江戸川放水路工事中)の大津波で寺史等が失われている。
大津波とあるが実際は高潮だった。Wikipediaによれば、死者行方不明者1301人。下記も。地元の歴史の転換点だった。
千葉県浦安町は全町が水没した。江戸時代を通じ、幾多の水害をくぐり抜けてきた行徳塩田も、当水害で塩田の堤防が完全に破壊され、東京湾で行われてきた数百年の製塩業の歴史は事実上幕を閉じた。
神明神社の背中側に出る。こちらの神社も行徳街道に正対している。
こちらは創建年代不詳とのこと。
だが境内の公孫樹は大木が何本も聳えて壮観。
行徳街道沿いには、ところどころ古い商家も残っている。
・田中邸(明治初期築)
明治時代には戸長役場として利用されていた。また田中家、加藤家はかつて行徳塩田所有者として知られていた(小冊子「ぎょうとく」より)
この前を通る行徳街道(県道6号)は、ほとんど歩道がない狭い2車線だが、広いNEW県道6号が南に並行して走る(新行徳橋を通る道)ので、あまり手がはいっておらず、昔の雰囲気を残している。
行徳から(新浦安からも)本八幡行きの京成トランジットバスに乗ると、「押切」から「行徳橋南詰」までこの旧道を通る。
・加藤邸(明治初期築)こちらも塩問屋。
行徳における初の国登録有形文化財。天井の一部には屋久杉の一枚板が使われたり、ガラスが横浜から直接運んだものだったり、庭は溶岩が配された回遊式庭園だったりするそうだ。
見事な煉瓦塀。
下の写真は笹屋うどん跡。安政元年(1854)の貴重な建物。
行徳船に乗って来た旅人が行徳新河岸(現、常夜灯公園)で降りて行徳街道に出ると、目の前に笹屋があり、大変繁盛していた。多くの文人墨客も立ち寄ったともいわれている(小冊子「ぎょうとく」より)
当時旅人が船を待つ間に笹屋でひと休みして、土産に干うどんを持ち帰ったそうだ。今でも市川歴史博物館に、江戸末期に店の宣伝として描いた屏風や、太田蜀山人が書いたとわれるケヤキの大看板が残されている。
標柱には解説文と江戸名所図絵(部分)も。
前出の「行徳レポート」にあった江戸名所図会「行徳舩場」
右上に笹屋うどんがちゃんと記されている。
つづく。