墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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旧江戸川当代島水門~慈悲地蔵尊~船圦緑道  浦安市当代島の旧跡歩き

浦安市の旧跡といえば郷土博物館やフラワー通りが「メジャー」だが、日曜日の午後に「ちょっとマイナー」な旧跡を巡った。

 

まずは浦安市当代島(字名)から。市川市との境で旧江戸川に面している。当代島水門のある場所で堤防から川面に降りれるようになっていた。

 

下流方向。奥の橋は東西線の鉄橋。右手は旧江戸川に浮かぶ妙見島(江戸川区)

 

上流方向。この先が新中川との合流地点になっている。

本流は右から。行徳を越えて5kmほど遡った京葉道路の橋あたりが、江戸川方水路との分岐点。

1月に訪ねた場所。

 

川の側から見た当代島水門を見たら、下部がコンクリートで固められている「開かずの門」だった。

水門の先は船圦(ふないり)川(今は道路)で、岸から100mほどは今でも市川と浦安の市境になっている。

 

川向こうには新川への水門が見えた。

江戸時代に小名木川とともに整備され、行徳の塩が運ばれたルート。

小名木川は現在も船で通り抜けられるが、新川はグーグルマップでは難しく見える。

 

明治に利根運河が開削されると、蒸気船「通運丸」や「銚子丸」による東京ー銚子の定期便がここを通った。

 

隅田川とぶつかる地点。

 

荒川とぶつかる地点。

 

利根運河。もう船は通れない。

 

隅田川や神田川あたりは、観光船が復活していて賑わっているようなので、江戸川、利根川でもいずれは・・・と期待します。

 

当代島水門跡から200mほど南にある慈悲地蔵尊。

 

慈悲地蔵尊建立の由来

此の地蔵尊の建立してある地域は浦安町当代島字大川端と称し、堤外地であり此の地域内に居住している宅地は往古河川なりしが江戸川の度々の洪水により土砂が堆積して陸地となり、此の地が陸地となる迄の長い過程には江戸川に漂流してきた人畜の佛體が数多く漂着し、此の地に埋没されしと傅えられる。尚此の地区内にても災難事故にあわれた方も多数あり、依って此処に此の有縁無縁の霊魂が成佛する事を祈念し、併せて地域の住民が不慮の災難にあう事なく、家内安全幸福な生活が永久に営まれる事を祈願して建立せり。

昭和48年6月吉日 撰文 前田治郎助 会長 西脇森蔵 題字 善福寺芳雄

 

地元の人たちにしっかり守られていた。

 

 近くに政丸水産の工場兼販売所があった。

 

かつて川だった船圦緑道。

 

このときは故障中だったが水も流れるようになっていた。その場所にあった鰻。

 

説明板も2ヶ所にあった。

船圦川跡(ふないりがわあと)

現在、緑道になっているこの場所は、昭和40年代後半まで「船圦」と呼ばれた川が流れていたところです。全長550m、川幅12mあまりの川で、江戸時代のはじめごろに狩野浄天。田中十兵衛(当代島地区を開墾した人物)により人工的に掘削されたものであるともいわれていますが、はっきりしたことはわかっていません。

当代島地区は、この川沿いに集落が形成され、発展してきました。

かつては、この川から農業用の水路(堰)がひかれ、田んぼへ水を運んでいました。また、漁業用の船が多く係留され、採ってきた魚介類を荷揚げする光景がよく見られました。漁へ行くときは、ここから旧江戸川に出て、海へと下っていきました。「船圦」という呼び方は、ここからきたものを思われます。

川の水は、飲料水や洗い物などの生活用水として、日常的に利用され、地域の人々の生活を支える大切な役割を果たしていました。

しかし、漁業権の放棄や宅地化によって、川であることの必要性が次第に薄れて、昭和48年(1973)には、川の埋め立て工事が始められました。そして昭和52年(1977)、緑化推進事業の一環として、道路中央部に木々が植えられた緑の道路が完成しました。

この道路は、市民の公募により「船圦緑道」と名づけられ、いこいの散策道として親しまれています。平成17年1月 浦安市教育委員会

 

稲荷神社の前あたりから。正面十字路は少し盛り上がっており、かつては橋があったことがわかる。ブラタモリの定番パターン?

つづく。