東京都文化財ウィーク2013関連事業のひとつ、「東京下町に築かれた前方後円墳 ~柴又八幡神社古墳~」に応募して当選した。午後の部で60人。午前は40人参加だったそうだ。
葛飾区郷土と天文の博物館の学芸員、ボランティアスタッフの方々が、解説・支援をしていた。
11/3 13:30 柴又駅集合、はじめに区民センターで小一時間、学芸員のコデラ氏の講義を受ける。興味深い内容。
この地は、かつて下総だったが、養老5年(721年)の奈良正倉院文書に全国で3ヶ所記載のある場所のひとつ。(筑前、美濃、下総)
下総の葛飾郡大嶋郷には1191人居住。苗字の8割が「孔子部(あなほべ)」。
「嶋俣(しままた)、仲村、甲和(こうわ)」という3つの里があったそうだ。
甲和は「河曲(かわわ)」が転じたもの。コイワに似てるなと思ったら、やはりそのようだ。
嶋俣は、土地が高い「嶋」と川の分流「俣」でできている。これは奈良時代の話なので、古墳の主が孔子部さんとは限らない。
このような低地にはもともと石がないので、古墳の石組みが露呈していると注目される。柴又古墳の石と立石様の石とは同じ質だそうだ。(石室の石だという説もある)
もともとのこの周辺の聖域が柴又八幡神社だったようだ。
昭和40年に社殿改築があり国学院大教授が立会い調査し、副葬品、鉄の塊、埴輪が出た。平成元年に学術調査され、地下の埴輪列が発見された。東京下町で確認されたのは始めて。周溝や石室の砂も確認された。
埴輪は、円筒2種と形象(人と馬)。人物は下総型で、一直線の眉にT字に鼻がつき、首が短く、帯が回る。手は指を表現しないしゃもじ型。
寅さん埴輪と呼ばれるものは、帽子をかぶった顔が寅さんに似ているから。2001年8月4日の発掘日は、渥美清の命日(1996年8月4日)という偶然が重なった。
名づけたのは朝日新聞の記者とお聞きした。
帽子の風習は朝鮮から。よく見ると帽子に鉢巻きが回っているそうだ。
奈良時代の戸籍にも、「刀良(とら)」が6人、「佐久良(さくら)」が7人いるそうだ。面白い。
円筒埴輪には突帯が3つ。武蔵では2つ。
石室の材は房州石。赤羽台古墳と同じ。ちなみに房州石はすべて横穴式に使われる。
天井はこの辺の古墳から推測すると石ではなく、木だったのではとのこと。
キーワードは、①地域間交流(石)、②地域性(人物埴輪)、③渡来系文化(人物埴輪)
団子屋の裏からは、奈良時代の遺物(須恵器)も出ている。
そしていざ古墳へ。
「国分道」という古道。
ブラタモリの通り、微妙な高低差を見逃すな!だそうだ。
確かに、道の左右どちらもほんのわずかに下っている。
ほどなく神社到着。今日は他にお客はいない。
2班に分かれる。
鍵を開けて柵内にはいり、本殿直下の扉の中へ。
立派な房州石。人一人入れるくらいを覆うように復元されている。
実際はこの石は、奥壁の一部だったのではとのこと。
石室の位置も、実際はここではなく、社殿外側との境のくびれ部だったらしい。
力のこもった石?これがご神体ということか。
15:30ごろ解散。その後は静かな境内。