今回からは群馬県。4/14に藤岡市、沼田市、吉岡町の3ヶ所の古墳群を探訪した。
一番見たかったのは初めに訪れた藤岡市の七輿山(ななこしやま)古墳。
4年前の夏に行った国史跡だが、昇寛さんのサイト・埼群古墳館別館: 古墳探訪記群馬を目にして、桜の時期に再訪したいと思っていた。
車であれば上信越自動車道・藤岡ICを降りて10分ほどの距離で、無料の駐車場もある。
休息所を兼ねた「七輿の門展示館」の側から。
左が後円部、右が前方部となる。
説明板があった。
国指定史跡 七輿山古墳
所在地:藤岡市上落合831-1ほか
所有者:国・藤岡市
指定日:昭和2年6月14日 追加指定:平成8年9月26日
古墳は、鏑川と鮎川に形成された舌状の河岸段丘に造られた三段築成の前方後円墳である。大きさは全長145m、後円部径87m、前方部幅106m、前方部と後円部の高さは16mを計る。
4回にわたる確認調査の結果、中堤帯や外堤帯と呼ばれる土手状の堤を境に内側と外側に周溝が巡り、三重目の溝、葺石、埴輪列が確認された。なお、埴輪列は中堤の平坦面に2列、三重目の溝は前方部前面からコの字状に検出されている。出土遺物は円筒埴輪、朝顔形埴輪・人物・馬・盾などがある。特に、円筒埴輪は径40cm、高さ1mを越す7条突帯の大型品で、貼付口縁と低位置突帯の特徴がある。
古墳の埋葬施設は不明であるが、出土遺物から築造時期は6世紀前半に推定され、6世紀代の古墳としては東日本最大の前方後円墳である。
藤岡市教育委員会
説明板の写真。この時は、まだ周溝は畑。
現在の様子。
後円部の先端の墳丘入口へ向かう。
後円部側から見た北側面。
後円部の先から。
白い柵のところから自由に入れるようになっていた。
墳丘にある説明板。
内容は展示館前のものとほぼ同じだが、こちらには「周辺の地形を利用して造られた」との記載もあった。
少し登ると後円部2段目を削ったテラスがあって、首の欠けた石仏等が並んでいる。
南側の上り道へ。
南側の斜面。
見上げれば花のドーム。
後円部に上がって前方部方向を見る。
北側の斜面。
そのあたりから北西方向の眺め。
北方向。うっすらと赤城山の稜線が見えていた。
鞍部から南側。南側はこちら側より高くなる崖があり、その縁に皇子塚古墳・平井地区1号墳(いずれも6世紀後半の円墳)、さらに先に白石稲荷山古墳(5世紀前半の前方後円墳)が造られている。
鞍部から前方部。
前方部から後円部方向を振り返って。
墳丘南斜面の小道を歩く方々。
前方部の先をパノラマで。
前方部右裾を途中まで降りて。
前方部の右裾を周溝まで降りて後円部方向。石は葺石の名残りか?
真横から見た前方部先端。
前方部右裾から後円部方向。
見上げる鞍部。
後円部を横から見上げて。
南東側から見た全景。右手前が後円部、左奥が前方部になる。
おそらく桜が植わっているのはここ数十年であり、築造当時の墳丘は葺石で覆われていたので、被葬者や築造者が想い描いた姿とは異なっているだろうが、これはこれでとても素晴らしい。墳丘のどこかの横穴式石室(?)でまだ眠っているであろうお方も満足しているのではないか。
麓で遊ぶ親子。
前方部の彼方には妙義山が見えた。
展示室に戻って一休み。
内部には藤岡市の文化財案内や、七輿山古墳を始めとする白石古墳群の説明パネルがあった。
七輿山古墳の説明パネルには、貼付口縁と低位置突帯を備える7条突帯の円筒埴輪について大阪府の古市古墳群・百舌鳥古墳群との関係が強くみられるとの説明が加わっていた。
なお、七輿山古墳 - Wikipediaには、七輿山の名前の由来として下記の話が紹介されている。
本古墳からほど近い群馬県高崎市吉井町池字御門にある日本三大古碑の1つ、多胡碑に「羊」と記されている人物と同一とされる多胡羊太夫の伝説に基づく。
奈良時代に多胡郡郡司となった羊太夫は、のちに謀反を図っているとして朝廷から討伐軍を差し向けられ、居城の八束城から逃れた羊太夫の一族が落ち合った場所が「落合」という地名になり、羊太夫の妻女ら7人がここで自害し、それぞれ輿に乗せて葬ったので「七輿山」という名前になったという。
なお、多胡碑に記される多胡郡郡司の任命は8世紀初頭のことで、古墳築造推定年代の6世紀前半とは合致しない。
国の特別史跡である上野三碑(こうずけさんぴ)はいずれもここから北西に3~4kmの場所にあってガラス越しに見学できる。山上碑には古墳もあるので次の機会に訪ねたい。上野三碑:山上碑及び古墳 | 高崎市