この日の最後に訪ねた古墳は、河合町川合にある大塚山古墳。
東からの大和川に北からの富雄川、南からの曽我川・飛鳥川が合流する地点のすぐ南に立地しています。
グーグルアースで一見して判る前方後円墳。墳長は200m近く。
東の、島の山古墳から歩いてきて、前方部の右裾側に至りました。
西に前方部先端側を見通して。
北の後円部方向を。
この先に、墳丘へ上れる通路があったのですが、この時点ではわからず、時計回りに一周しました。
右手に墳丘を見ながら堤の小径を進みます。広大な周溝!
墳丘の東側に出て、振り返った前方部先端。
そのまま北へ歩くと後円部近くに説明板がありました。
国指定史跡 大塚山古墳
昭和31年12月28日指定
川合大塚山古墳は、全長197(215)m、後円部直径108m、前方部幅123mの前方後円墳です。墳丘には円筒埴輪が並べられ、斜面には葺石が葺かれていたと思われます。
埋葬施設は竪穴式石室であると思われますが、詳しいことはわかっていません。墳丘の周囲には盾形の周濠の痕跡をよく残しています。墳丘の形や埴輪から5世紀中頃から後半にかけての築造であると思われます。同時期の古墳では奈良県内で最大級の古墳です。
周辺に城山古墳・中良塚古墳(前方後円墳)、九僧塚古墳(方墳)、丸山古墳・高山2号墳・高山3号墳・高山4号墳(円墳)の計7基の古墳があり、大塚山古墳とあわせて「大塚山古墳群」と呼ばれています。
この古墳群は5世紀中頃から6世紀前半にかけて造られました。
河合町・河合町教育委員会
歩いてきた側(南方向)を振り返って。
説明板の近くから周溝に降りれるようになっていました。
ぬかるみを避けながら墳丘へ近寄ります。
しかし、密な藪で引き返します。
堤に戻って後円部を回ってみます。
後円部先端側からのパノラマ写真。
墳丘の東側面を見通せるところで、奥に渡り土手のような道が目に入りました。
入れます。
そこにあった解説。
国指定史跡 大塚山古墳
昭和31年12月28日指定
大塚山古墳は前方部を南に向けた前方後円墳で、墳丘の長さは197m、後円部直径108m、後円部高15.8m、前方部高16.4mを測り、河合町で最大の古墳です。墳丘は三段に築かれており、墳丘の周囲には濠と堤が巡り、最近の発掘調査で堤の外側にも濠状の地形が巡ることがわかってきました。周濠の幅はくびれ部で約49m、後円部北側で35m、前方部南側で39mです。堤の幅は20mで、外側の環状遺構の幅は約15mです。
後円部墳頂に窪地があり、かつて石材も散乱していたことから、埋葬施設は不明ですが竪穴式石室と推定されます。また、前方部墳頂には明治40年(1908)に行われた軍隊の大演習に際し明治天皇の野立所となったことを示す石碑が建てられています。
遺物としては埴輪、土師器、須恵器があります。埴輪は円筒埴輪の他に、朝顔形埴輪、家形埴輪、蓋形埴輪、盾形埴輪、人物埴輪が知られています。出土した埴輪の特徴などから5世紀後半に造られたと思われます。
被葬者は不明ですが、大和川の水運と密接な関わりを持った人物と考えられます。
(後略)
河合町観光ボランティアガイドの会
整備された小径がありました。
表示は注意事項。
東側面を、緩やかに、前方部墳頂へ。
前方部墳頂には石碑がありました。
明治天皇が陸軍の演習を視察された際の記念碑のようでした。
前方部先端(南)方向は、密な竹藪。
振り返った後円部方向。
鞍部近くから後円部方向。
左(西)側の斜面。
右(東)の斜面は、登って来た側。
後円部墳頂を手前から。
後円部墳頂には、とらロープで囲まれたエリアがありました。
石仏も。
後円部墳頂から前方部方向を。結構な高低差でした。
2024年3月中旬訪問