前回のつづき、”川口シリーズ”の最終回になります。
国指定登録有形文化財の「旧田中家住宅」
本町の文化財センター本館から岩槻街道を北に1kmほど、街道に面して堂々たる洋館が建っていた。
主屋は1923年(大正12年)に竣工した木造煉瓦造三階建。外壁はイギリス式の煉瓦積みでさらに化粧用煉瓦を貼って仕上げられている。
この日は壁の一部が修復中だった。
下から見上げた3階部分。
現在は川口市立文化財センターの分館となっている。入館料一般200円。別途料金で日本間や茶室の利用も可。
下記の施設案内は建物を立体的に把握できるようになっていてわかりやすい(PC対応のみか)
設計は桜井忍夫。下記は内部のギャラリーに展示されていたパネル。
佐立七次郎の下で西洋建築を学び、佐立七次郎建築事務所での見習い時代に、佐立の代表作である本格的ルネサンス様式建築・東京株式取引所(明治29年)、および河合浩蔵によるドイツ・ルネサンス様式建築である東京座(明治28年)の建設に携わっている。その後、三菱合資会社、東京電気鉄道株式会社、東京倉庫株式会社に勤務し小岩井農場本部事務所(旧岩崎農場事務所)などを設計。大正10年に独立事務所を設けて2年後に田中徳兵衛邸(旧田中家住宅洋館)を設計した。
ちなみに佐立七次郎は工部大学校造家学科卒だが、辰野金吾、曾禰達蔵、片山東熊らの同期で、日本水準原点標庫 や旧日本郵船小樽支店(1906年)を手掛けている。
敷地には洋館と、1934年(昭和9年)に増築された和館、文庫蔵、茶室、池泉回遊式庭園、煉瓦塀がある。
主屋南西側の隅の柱。この部分は煉瓦を積んだそのままのようにみえた。縦に長い板は上部から続く 装飾のようだ。
正面玄関の軒上の大きな表札(?)
玄関を入ってすぐは畳敷き。
正面に神棚があり、天井は折り上げ格天井。ここが帳場でもあった。
すぐ裏手に重厚な造り付けの金庫があった。
帳場のすぐ隣りの1階応接室。
応接室への通用口にあったステンドグラス。
応接室正面から3階まで続く階段があった。
1階から2階方向。
2階から3階方向。
階段スペースの3階の中空のバルコニー。
3階から見下ろした階段。
2階のお座敷。2階でも洋館と和館が自然な形で連絡していた。
床の間や天井、欄間も凝ったつくり。
2階の庭園側の眺め。
洋間の窓の外にはベランダもあった。
迎賓のための大広間は、眺望を重視して最上階の3階につくられた。
「当時、南側から東、北側一帯には味噌醸造場が建ち並び、現在の国道122号線を隔てた芝川までの貯木場や製材所、河岸場を眺めることが出来た」(解説板より)
部屋は「ジョージアン様式」でまとめられている。調度品が素晴らしい。
3階の控えの間。
階段の横には「蔵」への入口があった。
蔵はパネル展示などのギャラリーになっていた。
田中家は 代々長男が「德兵衞」を襲名、初代德兵衞(寛政7年~明治4年)が農家として身を立て、二代目德兵衞(文政11年~明治38年)から麦味噌の醸造や材木商を営んだ。
当館を竣工したのは四代目田中德兵衞で、先代の跡を継いで昭和初期までに味噌醸造業・材木商として財を成し、埼玉味噌醸造組合理事長をはじめ、南平柳村村長、埼玉県会議員を務め、昭和7年(1932)には貴族院多額納税者議員にも就任した。
自ら材木商を営んでいたことから建築資材にはこだわりがあり、当時入手できる最高級の木材を用い、煉瓦も建築現場の近くで専門の職人に焼かせたと伝えられている。
田中德兵衞商店では「上田一」(じょうたいち)という銘柄を全国的に販売したが、昭和50年頃には川口での味噌醸造は廃れてしまった。(以上は下記の公式サイトより)
蔵の上部は太い材の屋根組みが見えた。
1階に降りて、洋館から和館へ進む。
広々とした座敷。
座敷部分の説明板。専門用語が多く、施主の強いこだわりが感じられた。
お座敷からの庭の眺め。
庭から見た建物。左が洋館、右の木々の奥に和館。
午後の日差しを浴びた洋館南面。
洋館北面を敷地の外から。手前は文庫蔵の屋根。
いただいたパンフに学術的・文化的価値についての専門家の評価が箇条書きに記されていた。
・住宅としては県下唯一の木造煉瓦造り3階建ての建築物です。
・本市の素封家の繁栄を極めた生活ぶりを象徴する建物です。
・旧芝川沿いに建てられており、街区のランドマークを形成しています。
・質の高いデザインを備えています。
・地元職人たちの高い建築技術を表現した建物です。
・味噌醸造業との関係から、近代産業遺産としての価値を有しています。
土曜の午後だったが他にお客さんは1人だけ。ひっそりとした雰囲気だったが、かつての「素封家」が暮した現場をじっくり味わう貴重な体験ができた。
建物細部の解説は下記の建築家の方のサイトに詳しい。
岩 崎 建 築 研 究 室 ・ 日 誌 : 川口市旧田中家住宅
帰り道に渡った旧芝川。荒川の支流で、かつては両岸に沢山の河岸があって賑わっていた。