墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

日本水準原点標庫 英国大使館

前回のつづき。

千鳥が淵交差点から英国大使館沿いの道を歩く。歩道の脇に緑地帯があり、空を覆うような桜並木(枝のみ)が続いていた。

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植え込みの奥の英国大使館。

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内堀通りに沿って300m、奥行き100m位の広大な敷地。敷地に沿って砂利道がある。

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以下はWikipediaの「英国大使館」、歴史の項から抜粋。この場所に置かれるまでの紆余曲折は、それ自体が日本史(世界史)だった。

・1859年(安政6年)オールコックが高輪東禅寺に英国総領事館(その後に公使館)を開設。

・2度の東禅寺事件により公使館員が殺傷され、公使館は横浜に移る。

江戸幕府により品川御殿山に公使館が建設されていたが、完成直前の1863年(文久2年)に高杉晋作らによる焼き討ちにあい(英国公使館焼き討ち事件)、使用されなかった。

・1866年末(慶応2年)に公使パークスが公使館を横浜から泉岳寺前に移転。

・1869年(明治元年)頃、パークスは公使館を三田上野沼田藩の下屋敷跡に移転。

・さらに、パークスは恒久的な公使館用地を求めて、江戸城近くの複数の用地を物色した結果、1872年(明治5年)、七戸藩上屋敷、櫛羅藩上屋敷、七日市藩上屋敷、および旗本水野兵部の屋敷跡を合わせた12306坪(明治17年の本契約では10833坪)をほぼ永久に貸与されることとなった。

・1905年に公使館から大使館に昇格

・太平洋戦争の勃発で日英の国交は断絶し大使館も閉鎖されたが、終戦直後、大使館は英国海軍の管轄下におかれ軍艦(リターン号)扱いされた。

・1946年(昭和21年)6月、大使館は「駐日英国連絡公館」として通常の業務に戻り、1952年(昭和27年)4月のサンフランシスコ講和条約の締結により、大使館の名称に戻った。

 

正面入口。1929年(昭和4年)築で設計は英国工務省。

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その前の、初代公使館(1874年竣工)は銀座煉瓦街を設計したトーマス・ウォータースによる赤レンガ建物だったが関東大震災(1923年:大正12年)で倒壊している。

 

正門前に気になる小さな記念碑があった。

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1898年、当時の英国大使 サー・アーネスト・サトウが、この地に初めて桜を植えました。植樹100周年を記念して、1998年春、ここに駐日英国大使館は新たに桜を植え、日英両国友好の証とします。

この記念碑は紀宮清子内親王殿下によって除幕されました。1998年4月3日

シルビア・オーウェンズ作 1963年 英国生まれ

 

非常に大きな公孫樹の木もあった。

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 敷地の南端。南に行くに従って緑地帯が細くなった。

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そのすぐ先は、半蔵門。交差点から見えるワコール麹町ビル。

1984年竣工で設計は黒川紀章、施工は竹中工務店東急建設

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半蔵門交番横から。左が半蔵門、右が桜田濠。

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半蔵門の堤と半蔵濠。水面の標高差は15mほどのようだ。

桜の枝が芽吹いていた。

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半蔵門の堤と桜田濠。

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半蔵濠の南から半蔵門の堤。左の歩道はひっきりなしにランナーが走っていた。

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通りを挟んで、最高裁判所

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現在の建物は1974年竣工、設計は岡田信一(1928~2014、他に警視庁本部庁舎など多数)

三宅坂交差点から見上げる最高裁

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「大軍都・東京を歩く」によれば、この台座にはもともと陸軍大臣(後、総理大臣)寺内正毅の銅像(1923年北村西望作)があったが、戦時中の金属回収で溶かされた。

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現在の女性像「平和の群像」は株式会社日本電報通信社(今の電通)が立てた「広告記念像」

この場所は渡辺崋山の誕生地(1793年)との説明版があった。

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通りを渡って国会議事堂の方へ坂道を上ると、左手に憲政記念館と国会前庭公園とがある。

満開の河津桜が圧巻だった。

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花曇だったが。

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鈴なりの花。

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前庭には東京都指定有形文化財日本水準原点標庫」がある。

一瞬ローマのお墓のような雰囲気。

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軒下に大日本帝国の文字。

以下も「大軍都・東京を歩く」黒田 涼著の32頁からの引用。

国会前庭庭園は美しく整備されて四季の花が咲き誇り、無料で開放されています。今は憲政会館なども建ちますが、昔の歴史に触れたものはほとんどありません。軍についてはわずかに「この地の由来」と題した碑の中で、「参謀本部の所在地となった」と書かれているだけです。

あとは小さな神殿風の建物があります。この中には日本の地図製作上重要な日本各地の標高を測る起点、日本水準原点があります。戦前、地図製作は軍の仕事でした。陸軍陸地測量部はこの参謀本部と同じ敷地にあり、原点を収めた標庫は1891年に出来ました。ちなみに旧軍の建物が同じ機能で使われ続けているのはここだけだと思います。建物正面には菊の紋章と「大日本帝国」の文字が未だに記載されています。

 

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 説明板もあった。

東京都指定有形文化財 日本水準原点標庫

日本全国の統一された標高決定のための基準として、明治24年(1891年)5月に水準原点が創設されたが、この建物はその水準原点標を保護するために建築されたものである。設計者は工部大学校第1期生の佐立七三郎(1856~1922)。建物は石造で平屋建。建築面積は14.3㎡で、軒高3.75m、総高4.3m。正面のプロポーションは柱廊とその上部のエンターブラチュア(帯状部)とペディメント(三角妻壁)のレリーフの装飾で特徴づけられる。

日本水準原点標庫は石造による小規模な作品であるが、ローマ風神殿建築に倣い。トスカーナ式オーダー(配列形式)をもつ本格的な模範建築で、明治期の数少ない近代洋風建築として建築史上貴重である。

平成9年3月31日建設 東京都教育委員会

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上記とならんで国土地理院による石碑もあった。311の震災のことが記されていた。

日本水準原点

日本水準原点は、わが国の土地の標高を判定する基準となる点である。明治24年(1891年)5月にこの場所に設置した。

日本水準原点の位置は、この建物の中にある台石に取り付けた水晶板の目盛りの零線の中心である。その標高は明治6年から12年までの東京湾の潮位観測による平均海面から測定したもので当時24.500mと定めた。

その後、大正12年(1923年)の関東地震による地殻変動に伴いその標高を24.4140mに改正したが、平成23年(2011年)3月11日の東北地方太平洋沖地震による地殻変動に伴い24ミリメートル沈下したため、新たに24.3900mに改正した。

平成23年10月21日 国土地理院

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写真だけだと大神殿のようにも見える。

 

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菊の紋章が刻まれた銅扉。中に水晶板がある。

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 背面側にはドアもあった。

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建物の右は国土地理院の石碑。その奥は河津桜

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この場所は三宅坂を上がった高台になる。

かつては陸軍省参謀本部、陸軍大臣官邸が置かれ、かつて三宅坂といえば参謀本部のことを指していたそうだ。

 

また、江戸時代はここに彦根藩の井伊家屋敷があった。

桜の枝の先、右奥の警視庁の前あたりで、1860年3月24日(安政7年3月3日)に桜田門外の変があり、水戸藩からの脱藩浪士17名と薩摩藩士1名が彦根藩の行列を襲撃し、井伊直弼大老を暗殺した。

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桜田門外の変に至った要因には、その2年前の1858年、井伊直弼による勅許を得ないままの日米修好通商条約安政の五ヶ国条約への調印と、それに続く反対派の弾圧・安政の大獄が挙げられる。

その条約で開港した5港のひとつが新潟だった。

 

桜を見ていた時はそんなことには気づかずにいた。

小ぶりな桜だったが満開の桜田の桜。

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桜田濠の先には書き割りのように林立する丸ノ内のオフィスビル。

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議事堂周囲は厳重警戒中だった。

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