墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

川口の街 18ポンドカノン砲 川口市立文化財センター 川口市母子父子福祉センター 埼玉県川口市本町・金山町

前々回のつづき。

川口の本一通りの浜田接骨院横の細道を100m近く進んだ左側、工場敷地内に大砲が置かれていた。

 

大砲があったのは増幸産業という会社の敷地内だった。

 

1804年に増田安次郎が鋳物業で興し、今では超微粒粉砕機の専門メーカーとなっている。

ペーストからスラリーまで幅広い粉砕。摩砕機・粉砕機の専門メーカー!増幸産業株式会社

 

柵越しに撮った大砲。

 

門は閉まっていたが、よく見ると案内書があり、中へはいって構わないとあったので、門を開けて大砲の近くに寄った。

 

正面から。

下は解説板より。

18ポンド カノン砲

この大砲は幕末の嘉永5年 (1852年)に津軽藩により依頼を受けた増田安次郎が、後に砲術奉行を務めた高島秋帆とが協力して作り上げた18ポンドカノン砲の復元品です。当時は製作不可能とされていた大型砲で、1857年までの5年間に213門の大砲と41323発の砲弾が製造され、全国各地に配備されました。

幕末の日本近海にはロシア、イギリス、フランス、アメリカ等の異国船(黒船)が来航し、鎖国していた日本に対し強く開国を迫りました。脅威を感じた幕府は文政8年(1825年)に「異国船打ち払い令」を発布。その後江戸の台場をはじめ各地に砲台を作り警戒するようになりましたが、当時はまだ大砲もろくにない状態で打払いできる力はありませんでした。その頃、攘夷思想盛んな水戸、薩摩、長州、土佐の各藩では、海防のための大砲作りを必死に行なっていましたが、高性能な大砲を作るには至らず、そのため当時大砲作りで名のあった川口の鋳物師 増田安次郎が作ったものが多く用いられました。その性能は群を抜いており「増田安次郎」の銘は高性能砲の証、ブランドだったのです。後に高島秋帆より「増田氏は国花の干城なり」という褒状を授与されました。

鍋、釜などの日用品鋳物から大砲の鋳造へ乗り出すことは想像に余りある大冒険だったに違いないが、当時のチャレンジ精神は現在も粉砕機の開発に受け継がれている。

全長:3.5m、重量:3トン、口径:15センチ、射程距離:2500m

材質:青銅砲、弾丸:炸裂弾

 

明治維新により、川口の鋳物師は大砲まで手掛けることになった。

というよりも最初の国産大砲は、川口の鋳物師にしか造れなかったということか。

以下は門にも掲げられていた「大砲の歴史2:増幸産業株式会社 」から転載。

国防急を告げるとき、当時の川口の鋳物師達は 、日常品の鍋釜ばかりでなく、武器類の鋳造もするようになった。
なかでも、増田金太郎、安治郎が海岸防備用大砲を鋳造し 、その功績をたたえられ、苗字を許された。 安政六年(1859) 当時の砲術氏高島秋帆より、増田氏が、「独自の大砲を開発し国家の千城である」とまでほめられている。安治郎は当時の 鋳砲鋳物師の第一人者であったといえる。

当時の大砲は 先込式で、中子を入れて中空の砲身を鋳造し 、内面を仕上げる方法で、青銅砲と鋳鉄砲があり、砲身にも長短の二種類があって、短砲をホイッスル砲、長砲をカノン砲といった。 安治郎は各種の砲を作っていたようである。

 

初代の血を引く増田幸也社長が、パリのアンバリッド博物館へ行って先祖が造った嘉永七年の銘がはいる長州藩の大砲(1863年の下関事件で使われ英仏軍が戦利品として奪取)に再会する話もサイトにあった。

北欧出張第2部:フランスで我が先祖の魂(大砲)と再会

 

正面はマンション建設予定地。初めて見る人は驚くだろうが、川口とそして日本の歴史を語る復元品。造られた場所にあることに意味があると思います。

 

大砲見学の後は、大砲の向いている方へ歩いて岩槻街道に出た。正面のビルは「エルザタワー55」 

1998年に工場跡地に建てられた高さ185m・55階建てのマンションで650戸が入居する。

 

バス停近くにあった家。

 

案内図(前々回に掲載)の「文化財センター」を探していたら意外な場所にあった。(「本町ロータリー」交差点南西のマンションの一画)

 

入館料は一般100円。

 

エントランスにあった展示。後ろは絵だが雰囲気が出ていた。

 

キューポラもあった。

 

2階の展示室は、古代から近世にかけての歴史系の部屋と、近世~現代の鋳物業系の部屋とに分かれていた。残念ながら写真掲載は不可だった。室内の様子は公式サイトで。

 

歴史系展示では古墳時代関連もあって思わず見入ってしまった。

川口市南東部から東側の足立区・草加市へ流れる毛長川の流域には、川沿いの自然堤防から台地の縁にかけて古墳が多く分布していた。川口市内は新郷古墳群があって、埼玉県南部でもっとも古い古墳のひとつとされる高稲荷古墳(墳長75m・墳高9.5m)や鉄刀が出土した宮脇古墳があった。

毛長川流域の古墳については下記の方のサイトが非常に詳しいが、高稲荷古墳も宮脇古墳も宅地化や送電線敷設によって消滅とのこと。

新郷古墳群について

 

毛長川(旧入間川)は伊興遺跡や白幡塚古墳のエリアへつながっていく。以前訪れてから2年以上経ってしまった。

伊興遺跡 白旗塚古墳 東京都足立区 - 墳丘からの眺め

 

周辺の文化財の紹介コーナーで、とても気になる建物があった。

旧田中家住宅と川口市母子父子福祉センター。

 

 

先に川口市母子父子福祉センターへ。本一通りの浜田接骨院の斜向かいの道を200mほど西へ向う。塀の上に6つの視線を感じてカメラを向けたがまん中に嫌われた。

 

駐車場の先に、重厚な飾りの建物があった。

 

川口市/母子・父子福祉センター(旧母子福祉センター)

休所日は、月曜日と休日。平日ならば職員の方にお願いして中を見せて頂くことも可能だそうだ。

 

半分開いた門の先に説明板があった。

 以下説明板より。

 国登録有形文化財 建造物

川口市母子福祉センター(旧鋳物問屋鍋平別邸)主屋・離れ・蔵

木造瓦葺二階建の主屋と蔵、それに木造瓦葺平屋建の離れの三棟から構成されています。

これらの建物は、川口鋳物商人の草分け的存在とされている四代目嶋崎平五郎が、自分の隠居家として建設したものです。彼は明治末に先ず平家の主屋を建設し、その後、大正8年(1919)に二階部分を、昭和2年(1927)頃には、玄関脇の洋間(現事務室)を増築するとともに、その西側には蔵を建てるなど、明治末から戦後にかけて5回の増築を行いました。この間、使用目的も変化し、当初の別邸から一部事務所として居宅となり、昭和11年(1936)から14年(1939)にかけて迎賓施設としての離れを増築し、現在の姿の原形を造りました。

これらの建物群は、大正から昭和にかけて大きく変化した近代和風建築の特色がそのまま踏襲されており、一方、離れの造作には、ベネチアンガラスのステンドグラスや大理石、モザイクタイル、インド産黒檀などの贅沢品がふんだんに使用されることから、当時の川口鋳物業者の生活様式を今に伝える貴重な文化遺産です。川口市教育委員会

 

丸窓に嵌ったステンドグラス。

 

川口市文化財センターのサイトより。

川口の文化財‐川口市母子福祉センター(旧鋳物問屋鍋平別邸)主屋

 

こちらの方のサイトにも豊富な写真が載せられている。内部も魅力的。

趣向の凝らされた池泉回遊式日本庭園(1941年頃築)も川口市の名勝に指定されている。

旧鋳物問屋鍋平邸

 

このあと、川口元郷にある旧田中邸へ向った。

 

つづく。