前回のつづき。
船堀タワーに登ったときに新川に沿った緑の沿道が見えたので、日没が迫っていたもののこの機会に江戸川(浦安)まで歩いてみることにした。
新川沿いにあった案内図。
平成19年4月から全長3kmの両岸に桜を植える「新川千本桜」という取り組みが始まっている。
新川の歴史については「新川さくら館」の公式サイトの説明がわかりやすい。
新川は、天正18年(1590年)、江戸城に入った徳川家康が千葉県の行徳までの塩の船路開削を命じ、道三堀・小名木川と同時に開削。以来、新川は江戸市中に様々な物資を運ぶ水路、行徳の塩を運ぶ「塩の道」として多くの人に利用されるとともに、沿川には味噌や醤油を売る店や料理店などが立ち並び賑わいを見せていました。
現在では、鉄道や車などの移動手段が変化したことや、水門で区切られたことで船の就航はなくなりましたが、都市空間の中の貴重な水辺としてとして活用されています。
まずは船堀駅から荒川側の水門へ向かった。途中に魅力的な銭湯があった。
草木の侵食が激しい家も。
「新川千本桜」のモニュメントとして設置された火の見櫓。土・日・祝の10時~15時は中に入れるそうだ。
櫓の下にあった説明板。
櫓の隣にあったコンクリ柱はかつての新川西水門跡(上記説明板にかつての写真あり)
このあたり、石垣の迷路のようになっていて楽しい。
堤防からは川向こうの景色が眺められる。船堀タワーからも見えた荒川ロックゲートがあった。
荒川(放水路)と中川とは河口近くまで治水対策により仕切られているので、江戸時代のように小名木川から新川へ船で行き来することはできない。
下記の、荒川 (関東) - Wikipediaでまとめられているように17年かけて掘られた人工河川部分。
荒川放水路は、荒川のうち、岩淵水門から、江東区・江戸川区の区境の中川河口まで開削された人工河川を指す。途中、足立区千住地区、および墨田区・葛飾区の区境を経由し、全長22 km、幅約500 mである。1913年(大正2年)から1930年(昭和5年)にかけて、17年がかりの難工事であった。
目の前は中川。
新川と中川を仕切る水門。ゲートの奥が新川。
新川側から見たゲート。新川と中川も船の行き来はできない。
火の見櫓と隣り合う水門。
振り返ると豊かに水を湛えた新川。流れはほとんどなかった。
南岸には新川ポンプ所があった。
銅製の説明板。
あとで読むと、川を生き返らせた人々の努力と誇りが感じられる文章だった。
新川
新川はかつて船堀川と呼ばれ、その川筋は旧江戸川から現在の古川親水公園を経て中川(旧中川)に通じていました。寛永6年(1629)に三角から新川口までが新たに開削されて、全長約3kmにわたる今の新川が生まれました。
この新川は、銚子や行徳から年貢米、味噌、醤油等を江戸に運ぶ重要な水運路として利用され、江戸中期には人の往来も増え、成田詣の人々を乗せた行徳船が行き交うようになりました。
明治時代を迎え、通運丸などの長距離の定期蒸気船が就航し、さらに大正時代には小型の定期船である通船が地元の人々の足となりました。また、この頃の新川は白魚が群れをなし、子ども達は川を泳ぎ廻るなど生活と密着したものでした。しかし、江戸川や中川に橋が架けられ陸上交通が盛んになると輸送の主力は陸に移り、昭和19年(1944)に通船が廃止され、輸送路としての役割を終えています。
その後は、周辺の地盤沈下により堤防を高くしたため水面を眺めることができなくなるとともに、工業排水や生活排水が流れる川になってしまいました。そこで、昭和47年(1972)に新川が再び私たちの生活に身近かで安全な川となるよう整備計画をたてました。
まず、昭和51年(1976)には東西の水門を閉鎖し、川の水位を周辺の土地より低く調整して安全性を向上させました。そして、旧江戸川から浄化用水を取り入れ中川に排水しています。
一方、下水道計画では新川の中流域にポンプ所を建設する予定であったため、大雨のたびに汚水の混じった雨水が新川に流れ込みきれいな水質を保つことができない状況にありました。そこでこの計画を変更し、これらの雑排水を直接中川に放流できるよう第一製薬(株)用地を一部買収して現在の位置に新川ポンプ所を建設しました。その後、周辺地域の下水道施設完備により、新川はきれいな水が豊かに流れる一級河川にふさわしい親水空間として甦ることができました。
平成5年(1993)からは念願であった堤防の撤去をはじめとする環境整備工事が始まりました。
かつて舟運路として栄えた河川の姿から様々な歴史を経て今日ここに再びゆとりある親水河川として生まれ変わりました。平成9年6月
銅製の、船の模型も飾られていた。
通運丸もあった。
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宝珠院観音堂、寺田本家、横利根閘門、大利根分館、岩屋古墳 - 墳丘からの眺め
優雅に泳ぐ親子?
沿道と水面が近接し、心地よい空間になっている。散歩やジョギングしている方が沢山おられた。
川沿いには御屋敷も数軒見受けられた。
玄関先の石灯籠を良く見ると、猫サマが一体化していた。
全長3kmの沿道の中間点ぐらいに「新川さくら館」がある。ホールや集会場を備えた多目的施設で江戸川区が運営。閉まっていると思って通過したら21:30まで開館とのこと。
新川さくら館公式サイト|江戸川区船堀新川沿い新川千本桜地域の花見、観光、散策、デートスポットに
川沿いの遊歩道は3km切れ目なく続いていて、交差する車道を渡らずに歩ける。
運河として整備されたので直線的なところが多いが、地図を見ると支流の跡がくねくねと何本か残っている。
環七の下をくぐると、桁下が最も低い橋?があった。
上記の逆側から。橋の上は公園広場になっていた。
さらに行くと江戸川側の終点。
こちら側も船は通れない。
水路トンネルの上は遊具のある公園になっていた。
公園にあった真新しい説明板。
江戸時代は梨の栽培の盛んな地域だった。
新川梨について
享和(1800年頃)のとき、大塚宗蔵は新川の南で梨の栽培を始めた。改良を重ね文政4年(1821年)の秋収穫した梨を幕府に献上し好評を得、その後も毎秋幕府に納めた。
この梨は、甘く柔らかく歯切れがよく天下にない味覚で「新川梨」と呼ばれ江戸の町でも売られ、新川周辺で栽培も広まったが大正6年(1917年)の大水害で被害を受け、その後梨栽培は衰退した。
文政8年(1825年)宗蔵の子吉豊は父の一周忌にあたり業績を刻んだ石碑「楽誉君梨種梨樹碑」を梨園に建てた。
この碑は、現在大塚家の菩提寺今井の浄興寺に移されている。
平成27年3月 江戸川区
公園の先が江戸川との境だった。
大きな水門が聳える。
水門側の船だまりから新川側への取水口。
江戸川側から見た水門。
旧江戸川。対岸は浦安市。
先月訪ねた、浦安市にある旧江戸川当代島水門。
川下側には妙見島がある。
妙見島は工場地帯。
シルエットも。
最後に浦安橋を渡った。橋の上から北方向。右が妙見島(江戸川の中洲)
妙見島の東サイド。
アーチは地下鉄東西線の橋。
江戸川沿いに浦安の家並み。このあたり釣り宿が多い。
ちょうどスマートな屋形船が通りかかった。
船頭さんが屋上で操舵していた。