墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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堀江ドック~清滝弁財天 浦安市の旧跡歩き

前回のつづき。この時の最後の訪問地。

少し場所を移動して、東西線の南・境川の南側、堀江地区へ行った。

 

江戸川の岸、堤防の外にある「堀江ドック」

 

漁船の船だまりだが、使われてなさそうな船も見受けられた。

 

 堀江ドックから南東に300mほど、浦安市立南小学校に面して建つ清流(せいりゅう)弁財天。

 

昭和57年の落慶記念碑と詳細な縁起が刻まれた石碑があった。

 

浦安市教育委員会による説明板もあった。

割と最近になってからの物語があった。一時期は、わざわざ東京から蒸気船でここへ参詣する人で賑わったこともあったそうだ。

清瀧弁財天(せいりゅうべんざいてん)

明治44年(1911)6月14日のことです。町山利郎と内田秋蔵の二人が一番堤防(現在の清瀧弁財天南側付近)より少し離れたところから、一匹の白蛇が松の根元にある穴に消えていくのを見かけました。驚いた二人は、行者に伺いをたてたところ、「その白蛇は、弁財天の使い姫である」とのお告げがありました。そこで弁天市という大工に依頼して、祠堂を立てて弁財天を祀りました。

ところが、その一ヶ月後、暴風雨により祠堂が流されてしまいました。幸い損傷なく発見され、元の場所に安置されました。その頃から弁天様の霊験が遠くにも知れ渡り、参道には土産物屋などが軒を連ね、境内は参詣人で賑わいました。

ところが、大正6年(1917)10月1日未明の大津波(高潮)により、拝殿や社務所、茶屋や土産物屋などが流出、大破してしまいました。祠堂は南行徳村の大六天様に漂着し、保管していると聞いたので引き取りに行ったところ、「祠堂の上に白蛇が乗って流れ着いた」ということでした。

その後、弁天様は復興の目処がないまま長いこと放置されていましたが、信者の熱意により、大正13年(1924)に拝殿や神楽殿が再建されました。昭和24年(1949)には浦安町商工会が中心となって弁財天奉讃会を設立し、本堂、神楽堂の改修築や境内の整備を行ないました。現在の拝殿は、昭和30年代後半からの地下水の汲み上げにより、地盤沈下が起こり水没したため、昭和55年(1980)、「冬木弁財天」(江東区深川)をモデルに新築されたものです。

この弁天様は古くは生身蛇形弁財天といっていましたが、後年になり清瀧弁財天と呼ぶようになったとのことです。

平成26年(2014)7月 浦安市教育委員会

 

立派な石橋があった。

 

扉には残念なメッセージが書かれていた。ご冥福をお祈りします。

 

手前側の橋のさくの中央部分が壊れてしまったようだ。

 

サルスベリが綺麗だった。