前回の、矢田宮の後公園からは北西に600mにある、ひょうたん塚公園へ。
2つの古墳公園を結ぶ直線が、住宅街の道路のひとつになっています。
北東側の道路から見る後円部。結構な坂道です。
公園駐車場は無い上に周囲は道幅が狭く、停める場所を探す必要があります。
そこから北西側の生活道路から。左手前が後円部、右奥に前方部。
公園内に入って、前方部先端側から。
園路に沿って進み南東側から、形の整ったサイドビューを。右が後円部。
地元の方々による詳しい説明板があります。
ひょうたん塚古墳
遺跡名称:西ノ原1号墳(前方後円墳)
この古墳の築造年代は、おおよそ5世紀後半の古墳時代中期と推定されています。昭和48年(1973)の調査で周溝の存在も確認され、全体の保存状態は極めて良好な典型的な前方後円墳です。
この地方は古代イオハラ国と云われ、4世紀中ごろの大和朝廷の勢力下に組み入れられた頃の物語として日本武尊(ヤマトタケル)が、草薙の剣を振るって在来勢力と戦ったことが古事記・日本書紀に書かれています。
その後、日本武尊に副将軍として仕えた吉備武彦(キビノタケヒコ)の子孫の意加部彦(オカベヒコ)がイオハラ国の王(国造=くにのみやつこ)となり、この地を支配したと言われています。古事記・日本書紀には、その後西暦663年イオハラ王(イオハラノキミ)が万余の若い兵士の水軍を率いて、朝鮮半島に出兵し、唐・新羅の連合軍と戦い、大敗した白村江の戦いの記録もあります。
この古墳もその時代のもので、埋葬されている人物はその規模から清水区庵原の三池平古墳・神明古墳と並ぶ何代目かのイオハラ王の墓と推定されます。
かつて、この付近の有度山のふもとは谷田古墳群・草薙古墳群など西の吉田川と東の四方沢川(よもざわがわ)との間の約1500mにわたって200基を超える小型円墳が存在していましたが、明治時代以降の茶畑開発と昭和・平成時代の住宅用地開発や地域の都市化によって、現在ではこの古墳と谷田宮の後公園・県立美術館園地に数基が復元・保存されているだけです。
令和4年3月 有度地区まちづくり推進委員会 有度ふるさと研究会
実測図部分。墳長は49.2mの前方後円墳。
後円部に上がって前方部方向を。
後円部から南東方向。中央奥の植え込みは古墳では無さそうでした。
北西方向。
後円部先端(北東)方向。
前方部先端側に渡って振り返った後円部側。
左右の側面カーブを。
再び前方部先端から、縦位置で。
2024年2月下旬訪問